谷崎潤一郎『秘密』あらすじ 感想

あらすじ

主人公の男性は華やかな社交生活につかれ隠遁を試みます。

彼の選んだ隠れ家は浅草のある寺の中でした。

その寺は浅草の貧民靴の片隅にありました。

主人公は郊外に隠遁するよりも、町中のどこかにさびれた場所があるだろうと考えていてそういった場所を探したのでした。

主人公は東京生まれの東京育ちですが、東京の町のなかに自分が一度も足を踏み入れた場所あるに違いないと考えています。

ここで主人公の子供時代の思い出について語られます。

主人公は十二歳の頃、父に連れられて、深川の八幡様にお参りに行きます。

父にそばをご馳走してやる、とついていったのは境内の社殿の後ろでした。

其処には小網町や小舟町辺の掘割と全く趣の違った、幅の狭い、岸の低い、水の一杯にふくれ上っている川が、細かく建て込んでいる両岸の家々の、軒と軒とを押し分けるように、どんよりと物憂ものうく流れて居た。

小さな渡し船は、川幅よりも長そうな荷足りや伝馬てんまが、幾艘いくそうも縦に列ならんでいる間を縫いながら、二た竿さお三竿ばかりちょろちょろと水底みなそこを衝ついて往復して居た。

私はその時まで、たびたび八幡様へお参りをしたが、未だ嘗かつて境内の裏手がどんなになっているか考えて見たことはなかった。

いつも正面の鳥居の方から社殿を拝むだけで、恐らくパノラマの絵のように、表ばかりで裏のない、行き止まりの景色のように自然と考えていたのであろう。現在眼めの前にこんな川や渡し場が見えて、その先に広い地面が果てしもなく続いている謎なぞのような光景を見ると、何となく京都や大阪よりももっと東京をかけ離れた、夢の中で屡々しばしば出逢あうことのある世界の如く思われた。

そんな経験から主人公はこの住み慣れた東京のなかにも自分の全く知らない異世界がある、と思っていました。

だから隠遁場所はどこか遠くではなくて東京の町中にしたわけです。

この「住み慣れた町の中の自分の知らない世界」がこの小説のテーマとなっています。

隠遁をはじめた主人公は精神が普通ではない状態です。

その頃私の神経は、刃の擦すり切れたやすりのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、余程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興も湧わかなかった。

微細な感受性の働きを要求する一流の芸術だとか、一流の料理だとかを翫味がんみするのが、不可能になっていた。

下町の粋いきと云われる茶屋の板前に感心して見たり、仁左衛門にざえもんや鴈治郎がんじろうの技巧を賞美したり、凡すべて在り来たりの都会の歓楽を受け入れるには、あまり心が荒すさんでいた。

どうしてそういう状態になったかは不明ですが、人間関係に疲れたとか、あるいは読書のしすぎ、芸術へ触れすぎなどでしょうか?

普通の刺激ではものたりなくなって、何か不思議な奇怪なことはないだろうか? と思い、バビロンやアッシリアの古代の伝説、コナンドイルの探偵小説、を読んだりします。

他にもいろいろ遠い海外の怪しげな書物を読んで刺激を求めます。

古い仏画で部屋中を飾ったり、お香をたいたりしました。

夜になると街歩きをします。

つけぼくろ、つけひげ、つけあざ、などをつけて変装してでかけることもあります。

そのうち主人公には女装趣味が芽生えます。

もともと着物に愛着心を持っていた主人公ですが、とくに女物が大好き。

美しい着物を堂々と着られる女性を妬ましく思っていました。

ある古着屋で見つけた女物の着物にどうしても袖を通してみたくなり、ついにそれを着て出かけます。

化粧も整えて、完璧に女装をして出かける主人公。

自分が女性になっていく場面が微細に描写されています。

大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打ってつけであった。

夜が更ふけてがらんとした寺中がひっそりした時分、私はひそかに鏡台に向って化粧を始めた。

黄色い生地きじの鼻柱へ先まずベットリと練りお白粉しろいをなすり着けた瞬間の容貌ようぼうは、少しグロテスクに見えたが、濃い白い粘液を平手で顔中へ万遍なく押し拡ひろげると、思ったよりものりが好く、甘い匂においのひやひやとした露が、毛孔けあなへ沁しみ入る皮膚のよろこびは、格別であった。

紅やとのこを塗るに随って、石膏せっこうの如く唯徒らに真っ白であった私の顔が、溌剌はつらつとした生色ある女の相に変って行く面白さ。

文士や画家の芸術よりも、俳優や芸者や一般の女が、日常自分の体の肉を材料として試みている化粧の技巧の方が、遥はるかに興味の多いことを知った。

長襦袢、半襟、腰巻、それからチュッチュッと鳴る紅絹裏もみうらの袂、―――私の肉体は、凡べて普通の女の皮膚が味わうと同等の触感を与えられ、襟足から手頸てくびまで白く塗って、銀杏返いちょうがえしの鬘かつらの上にお高祖頭巾こそずきんを冠かぶり、思い切って往来の夜道へ紛れ込んで見た。

主人公は女装のまま外に出ます。

女装で歩くと見慣れた町もまるで異世界のよう。

女装で街を歩く主人公の感覚が詳細に書かれています。

甘皮あまかわを一枚張ったようにぱさぱさ乾いている顔の上を、夜風が冷やかに撫なでて行く。

口辺を蔽おおうて居る頭巾の布きれが、息の為めに熱く湿うるおって、歩くたびに長い縮緬の腰巻の裾は、じゃれるように脚へ縺もつれる。

みぞおちから肋骨あばらの辺を堅く緊しめ附けている丸帯と、骨盤の上を括くくっている扱帯しごきの加減で、私の体の血管には、自然と女のような血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなって行くようであった。

友禅の袖そでの蔭かげから、お白粉を塗った手をつき出して見ると、強い頑丈がんじょうな線が闇の中に消えて、白くふっくらと柔かに浮き出ている。

私は自分で自分の手の美しさに惚ほれ惚ぼれとした。

このような美しい手を、実際に持っている女と云う者が、羨うらやましく感じられた。

主人公は毎晩のように女装で外出します。

芝居の弁天小僧のように、こう云う姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであろう。

と思った主人公は匕首あいくちや麻酔薬を隠し持って外出するように(本当に犯罪を犯そうと思ったわけではなく、気分を盛り上げるためにです)

主人公は次第に女装の外出にも慣れ、女装のまま映画館にも入るようになります。

ある晩主人公は映画館の二階の貴賓席に入りました。

そこで二、三年前恋人だった「T女」という女性を見かけます。

T女は男性と一緒でした。

T女は令嬢とも芸者ともつかない容貌ですが絶世の美女。

素人か水商売かはっきりしない女性でしたが、男から男へ渡り歩く女性であることだけは確か、そんな女性でした。

2、3年前に知り合った際、主人公がそのT女を捨てる、という形で別れたのでした。

2,3年前は小太りだったT女は痩せてすっきりとして、美しさを増しています。

女装した自分の美しさに自信のあった主人公もT女の隣にいると恥ずかしくなってしまいます。

かつてもてあそんで捨てた女性でしたが、今女としてはT女に負けてしまった主人公は、こんどは男としてT女を征服したいと思います。

「あなたは私が誰だか知っていますか?

今夜久しぶりにあなたを見て、あなたに恋をしました。

またおつきあいをしませんか?

もしよろしければ明日の今頃ここでお会いしましょう」

主人公はこんな手紙を書いて、T女のたもとに投げ込みました。

夜が更けて映画が終わるとT女は
「…………Arrested at last…………」(ついに見つけた)
と女の耳元で囁いて去っていきます。

主人公が家に帰って着物を脱ぐと、ぱらりと頭巾の裏から小さな紙が落ちて、そこに「Mr.S.K」と主人公のイニシャルが書いてありました。

T女は主人公に気が付いていたのです。

紙を開くと、そこにはT女からの返信がしたためられていました。

「私はあなたと別れて以来ずっとあなたのことを想っていました。

私は最初から頭巾の女性があなたであることがわかっていました。

あいかわらず物好きでいらっしゃるのね。

私にまた会いたいとおっしゃるのも物好きの気まぐれにすぎないとしても、やはり嬉しく思います。

ただ私も都合があって私の家を知られたくないので、明日の夜9時から9時半の間に雷門で待っていて下さい。

そこに私より差し向けた車夫があなたを迎えに行きます」

翌日は大雨でしたが、主人公は女との約束通り雷門の前で待っていました。

車夫が現れ主人公は車に乗ります。

車夫は主人公が車に乗る前に布で目隠しをします。

目隠しをされたので周りが見えないのですが、主人公は隣にT女が乗っていると感じます。

俥は方向をくらますためか一つの所をくるくる2,3回ったのち走り出します。

右に曲がったり、左に曲がったり、あんまりよく曲がるのでまるで迷路のなかを走っているようでした。

主人公は隣にT女が乗っているのは、主人公がちゃんと目隠しをしているか見張るためだろうと思います。

1時間ほどたってようやく俥が泊まります。

相変わらず目隠しされたままの主人公は車夫に導かれて少し歩きます。

玄関の戸の開く音がして、家の中につれていかれます。

ふすまの開く音がして部屋に入ると、ようやくT女が目隠しをとってくれました。

T女は
「上海でお別れしてから、いろいろの男と苦労もして見ましたが、妙にあなたの事を忘れることが出来ませんでした。

もう今度こそは私を棄てないで下さいまし。

身分も境遇も判らない、夢のような女だと思って、いつまでもお附き合いなすって下さい。」
と哀願します。

主人公は夜中の二時ごろまでT女と過ごしたのち、また目隠しをされて、同じ方法で雷門まで送り返されました。

それから毎晩のように同じ方法でT女の家に通います。

二月たちました。

主人公は自分が毎晩行くT女の家は東京のどのあたりなのだろう? と好奇心を持ちます。

T女に目隠しをとって欲しいと頼みますが、T女は許しません。

「何卒どうぞそんな我が儘を云わないで下さい。
此処の往来はあたしの秘密です。
この秘密を知られればあたしはあなたに捨てられるかも知れません。」

「どうして私に捨てられるのだ。」

「そうなれば、あたしはもう『夢の中の女』ではありません。
あなたは私を恋して居るよりも、夢の中の女を恋して居るのですもの。」

さんざん主人公にたのまれて「仕方がない、そんなら見せて上げましょう。………その代り一寸ですよ。」とついにT女が折れます。

目隠しを取られたものの主人公はここがどこかわかりません。

そこには印形屋がありました。

主人公が印形屋の看板の横に書いてある町名番地を見ようとすると、T女にまた目隠しをされてしまいました。

T女には、「もうこれ以上私の家が何処か探ろうなんて思わないで下さい」と懇願されますが、主人公の好奇心は止みません。

長い年月毎晩のように目隠しされてT女の家に連れて行かれていた主人公は、もうその時の感覚を覚えてこんでしまいました。

ある朝主人公は雷門の前に立って目をつぶりながらそれを再現します。

うまくいき一瞬目隠しをとってもらった時に見た印形屋をみつけることができました。

そしてその日のうちに主人公はついにT女の住処とT女の現在の身分を探り当てます。

主人公はそれきりそのT女を捨てました。

感想

見慣れた町も夜は違って見える。

女物の着物をまとった時の官能。

怪しさ満点!

完成度の高さに驚く、非常に芸術性の高い短編です。

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