夏目漱石『こころ 中 両親と私』詳しいあらすじ|夏目漱石のおすすめ小説|後期三部作

夏目漱石『こころ 中 両親と私』詳しいあらすじ

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夏目漱石『こころ』あらすじ 登場人物紹介
夏目漱石『こころ』あらすじ 登場人物紹介

故郷に帰る私

私は故郷に帰りました。

父親は息子が大学を卒業したことが嬉しくてたまらないようです。

私は大学を卒業したぐらいで大騒ぎをする父親を田舎臭いと思います。
しかし次の父親の言葉を聞いて今度は逆にそう思った自分を恥ずかしく思うのでした。

おれはお前の知ってる通りの病気だろう。
去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。
それがどういう仕合しあわせか、今日までこうしている。
起居たちいに不自由なくこうしている。
そこへお前が卒業してくれた。
だから嬉しいのさ。
せっかく丹精した息子が、自分のいなくなった後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉うれしいだろうじゃないか。
大きな考えをもっているお前から見たら、高たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。
しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。

父親は冷静な気持ちで自分がまもなくこの世の人でなくなることを覚悟していたのです。

自分の浅はかさに気が付いて恐縮する私でした。

といっても今は表面的には父親は元気なので、母親は父親の病気をそれほど心配していないようです。

私は先生や先生の奥さんから聞いた、先生の奥さんのお母さんが亡くなった病気を話しますが、まるで他人事のようです。

また母親によれば、「お父さんは口では覚悟はできているなんて言うけど、心の中では後十年も、二十年も生きるつもりだよ」というのです。

私は父親が亡くなった後、母親はどうなるだろう? と考えます。

また父親が亡くなった後も自分は東京でいままでのような生活を続けられるのだろう? と考えます。

先生が言っていた、お父さんが元気なうちに財産をわけてもらいなさいという言葉などを思い出します。

両親は私の大学卒業祝いに近所の人を招いたらどうだろう? と言います。

私はもともとそういう大げさなことが嫌いなのに加えて、またインテリ都会人の私は田舎の人々の気風があまり好きではありませんでした。

それに対して私が理屈っぽいことを言って断ろうとすると、父親は

学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない

と不機嫌になります。

明治天皇と父

しかし結局そのお祝いの会は中止になりました。

明治天皇のご病気のニュースが入ったのです。

ご遠慮してお祝い会は開かれないことになりました。

私は故郷で書物を読んだり、手紙を書いたりして、過ごしています。

東京にいたときよりも、退屈、ものたりなく感じられます。

父親は明治天皇のご病状が気になってしょうがない様子。

新聞が来ると真っ先にその記事を読むのでした。

「勿体ない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
こういう父の顔には深い掛念(けねん)の曇りがかかっていた。
こういわれる私の胸にはまた父がいつ斃(たお)れるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下(くだ)らないものでも、まだこうしていられるくらいだから」

父は次第に弱って行きます。

そしてついに明治天皇が崩御しました。

その時の父親の言葉は、

「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己(おれ)も……」

というものでした。

就職活動と私

8月の半ばになりました。
私は友達から手紙をもらいました。

手紙の内容は就職の紹介でした。

地方の中学教員の口があるがいかないか? というものです。

経済的にはそれほど急いで就職する必要のない私は、興味がもてませんでした。

「僕の知り合いに教師になりたがっている人がいたのでその人に紹介して上げて下さい」という返事を書きます。

私はのんびりしていますが、両親は大学を卒業したからには近いうちに就職してほしいと思っているようです。

大卒の私にはよい就職先があると固く信じていますし、また就職してくれなきゃ知り合いに肩身がせまいと言います。

両親はこんなことを言います。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いじゃないか。こんな時こそ」
そして先生に手紙を出して、就職先を紹介してもらえ、というのです。

私は先生が自分に就職先を紹介するような人ではないことをわかっていましたから、生返事をして席をたちました。

私は両親の手前、ついに先生に手紙を書くことにしました。

それは両親に言われるから、というのもありましたが、それだけでなく、就職すればまた東京に出てこられるから、というのもありました

私は手紙を書きながらも先生は自分に就職の紹介などしてくれないだろう、もししたくても世間の狭い先生に就職紹介などできないだろう、と思っています。

書いた手紙を両親に見せます。

両親は「こんなことは親にいわれなくても自分で気が付いてやるものだ」と歯痒そうに言った後、私に早く手紙を投函するように促します。

手紙を出して一週間たちましたが返事はきませんでした。

先生からの手紙はまだかまだか? と聞いてくる両親に私は「おそらく避暑にでも行っているのでしょう」と弁解します。

ところで先生に言われていた、財産分与の問題はまだ父親に話せていないままです。

私は未来を心配しながらも未来に対する処置をなにも実行していないのでした。

9月になりました。

相変わらず先生から手紙は来ません。

私は東京に帰りたくなります。

私は父親に当分今まで通り学費を送ってくれるように頼みます。

「田舎にいたら、お父さんが満足されるような就職先なんて見つからないですよ。
東京に出て仕事探しをしたいのです。
もちろん仕事が見つかったらもう仕送りはいりません」

そんなことを言いますが、内心は東京に出たって父親が喜ぶような就職先なんて見つからないだろうと思っています。

しかし大学生の就職事情にうとい父親は私に騙されてOKしますが、こんな小言も言います。

そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。
その代り永くはいけないよ。
相当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。
元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞなるものじゃないんだから。
今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね(中略)昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」

父の病状に急変が! 東京に帰るのを延期する

なるべく平和に故郷を発ちたい私は、母親が調べた占いで縁起の好い日に東京に帰ることにしました。

いよいよ帰る間際の夕方、荷造りの真っ最中に父親が倒れました。

入浴中に倒れたのです。

翌日は調子がよくなりましたが、私は不安のため予定していた日になっても東京へ発つ気がおこりませんでした。

医者はただ用心するように、と言ってはっきりとしたことは言いません。

東京行は少し延期することにしました。

父親は小康状態でしたが、その3、4日後また父親が卒倒しました。

医者は今度は絶対に安臥を命じました。

母親は不安そうです。

私は兄と妹に電報を打つ準備をしました。

父親は布団の中で特に苦しんでいる様子はありません。

「どうせ長くないんだから旨いものを食べたい」「どうしてこんなに腹がすくのだろう?」などと言っています。

叔父が見舞いに来ても食べ物の話ばかりしているのでした。

そんな状態が1週間続きます。

私は父と兄に手紙を書きます。

内容は
「お父さんはおそらくもう長くはないだろう。いよいよというときには電報を打つから」というものです。

兄は仕事が忙しく、妹も妊娠中。

危篤でもない限り来られないのです

私はもし自分の不手際で二人が父親の最期に会えなかったら、と責任を感じています。

医者に頼んで看護婦を派遣してもらいました。

父親は自分が不治の病にかかっていることはわかっているけれど、最期が間近だとは思っていないようです。

「今に治ったらもう一辺東京に遊びに行ってみよう」などと言います。

母親は仕方なしに「その時は私もいっしょにつれていって下さい」などと調子を合わせます。

また時には気弱になり「俺がいったらお母さんを大事にしてくれ」などとも言います。

見舞客で家の中がごたつく中、父の病状は日に日に悪くなります。

私は母や伯父と相談してついに兄と妹に電報を打ったのでした。

兄はすぐ来るとの返事でした。

妹は妊娠中です。

妹はこの前の妊娠では流産してしまったので、今回は大事をとって旅行はせず、代わりに妻の夫が来ることになりそうです。

そんな差し迫った中、私は父親のことばかり考えていたわけではありませんでした。

私はこの夏、自分がやる研究や学問の計画をたてていたのですが、このたびのごたごたでその3分の1も終わっていませんでした。

それが私をいらつかせました。

また私はしばしば先生のことを考えました。

母親は私に先生に頼んだ就職の話はどうだい? と聞いてきます。

さらに返事がないのならもう一度手紙を書いたらどうだい? とも言います。

母親は、お父さんが生きているうちに息子の就職が決まれば、お父さんがさぞ安心するだろう、というのです。

母親にそういわれても私は先生に催促の手紙などとても出せないのでした。

兄と妹の夫がやってきました。

父親は「今に治ったら赤ん坊の顔を見に、こちらから出かける」などと言います。

そのころ父親は毎日食いつくように新聞を読んでいましたが、ある日乃木大将が明治天皇の後を追ったというニュースを読みました。

その時の父親は「たいへんだ! たいへんだ!」とおおさわぎ。

そのときの父の騒ぎようは大変なもので、周囲の人は長い間忘れることはできませんでした。

「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。
「私も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。

先生から電報が

そんな中、私は突然先生から一通の電報を受け取ります。

それ受け取ったの母親でした。

内容は「ちょっと会いたいが来られるか」というものでした。

母は「きっと就職の紹介だよ」と期待します。

しかし兄や妹の夫まで来た今になって、私が病気の父をおいて東京に行くわけにはいきません。

そこで私は「行かれない」という電報を打ったのち、状況を細かく書いた手紙も送ります。

それから2日後にまた先生から電報が来ました。

内容は「来ないでもよろしい」という文句しかありませんでした。

母親は「きっと紹介してくれる就職先について手紙を送って下さるだろうよ」と期待します。

私は先生が自分の就職先を紹介してくれるなんておかしい、先生は何故自分を呼んだのだろう? と不思議に思います。

また手紙が届く日数を考えると、この電報は、私の手紙を先生が読む前に出したものなのです。

父の最期

父親は医者に絶対安臥を命じられてからは、両便とも寝たまま人の助けを借りて始末していました。

潔癖な父親は当初それを非常に嫌がっていたのですが、病気が重くなるにつれて頭が鈍くなるのか、しだいにそれを嫌がらなくなりました。

時には布団や敷布を汚して、はたの者が眉を寄せても気に掛けなくなりました。

あんなにあった食欲もだんだん衰えていきました。

たまに欲しがっても舌が欲しがるだけで、喉から下へはごく僅かにしか通りません。

またいつも真っ先に読んでいた新聞も手に取る気力がなくなりました。

作さんという父親の幼馴染がきてこんな会話が交わされます。

「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨ましいね。己(おれ)はもう駄目(だめ)だ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」

作さんが来た2,3日後、医者に手当をしてもらって気分がよくなった父親に、母親が喜ばせようと「先生の電報が私の就職紹介であった」と言ってしまいます。

それを聞いていた兄や妹の夫にお祝いを言われてしまい、私は困ってしまいますが、父の前で否定するわけにもいかず、あいまいな回答をして席をたちます。

父の病気は最後の一撃を待つ間際まで進んで来て、そこでしばらく躊躇するようにみえた。
家のものは運命の宣告が、今日下るか、今日下るかと思って、毎夜床にはいった。

そんな状況ですが父親は激しく苦しむということはありませんでした。

看病は比較的らくで交代制で一人ずつ父親に付き添うという感じでした。

そんな中、私は今迄あまり仲のよくなかった兄と二人きりで話す機会を得ます。

私は兄のことを「動物的」と思っていてそれであまり気が合わなかったのですが、兄の卒業祝いで酒をたくさん飲まされて嫌だったなどの話で共感して、はじめて親しく話すことができたのでした。

しかし兄は何の仕事もしていない先生のことを「エゴイスト」と言ったり、私の就職の話ばかりしたりして、私はやはり隔たりを感じたのでした。

また兄は父が亡くなった後は私が田舎で母の世話をすればよい、田舎にいたって、本は読める、などと言います。

私は「兄は私を土の臭いを嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた」と感じます。

やがて父は父が変な黄色いものを吐きました。

私はかつて先生と奥さんから聞いた「吐き気がないのならまだ大丈夫」という言葉を思い出して、父の最期が近いことを予感します。

父は時々うわごとを言うようにもなりました。

こんなことを言います。

乃木大将(のぎたいしょう)に済まない。
実に面目次第(めんぼくしだい)がない。
いえ私もすぐお後(あと)から

また母親に優しい言葉をかけたりもします。

突然「お光お前にも色々世話になったね」などと優しい言葉を出す時もあった。
母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。
そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照として想い出すらしかった。
「あんな憐れっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷(ひど)かったんだよ」
母は父のために箒(ほうき)で背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念(かたみ)のように耳へ受け入れた。

遺言や財産分与のことについて私も兄も伯父も聞きたかったのですが、結局三人で相談しているうちに話は愚図愚図になってしまいました。

そのうち父に昏睡がきました。

また舌がもつれてきました。

話始めるときは危篤の病人とは思われないような強い声を出せるのですが、次第に不明瞭になり、結局なにがいいたいのかわからないのでした。

先生からの手紙

私が看護婦とともに氷枕で父の頭を冷やしてやっているときでした。

兄が部屋に入ってきて、一通の郵便を私に渡しました。

それは普通の手紙にくらべるとかなり大きくて重いものでした。

裏を返してみると、差出人は先生でした。

状況からしてすぐに読めなかったので、私は手紙を懐に差し込みました。

それから少し時間がたってやっと一人になれた私は郵便の包み紙を引っ掻くように破ります。

出てきたのは大量の原稿用紙でした。

1ページ目にはこう書かれています。

あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。
しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。
したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸(いっ)するようになります。
そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘になります。
私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」

ついに先生の過去を知ることができる、そうドキドキしながらも私は不安になります。

日頃筆不精の先生がなぜ、こんな長い手紙を書いて送る気になったのだろう?

先生はなぜ私が上京するまで待っていられないのでしょう?

「それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸(いっ)する」
とは?

続きを読もうとしたときでした。

私を呼ぶ大きな兄の声がしました。

いよいよ父の最期の時がきたのでしょうか?

行ってみると、父が今すぐどうこうなるというわけではなく、私に手当の手伝いを頼むためでした。

それが終わるとまた私は自分の部屋に戻って手紙をめくります。

今度呼ばれるときは今度こそ父親の最期だろうという緊迫感の中で手紙を読み進めます。

手紙にはこう書かれていました。

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とっくに死んでいるでしょう」

私は汽車の時間を調べると、先生の手紙を袂の中にいれて、勝手口から家を出て、医者の家に行きます。

医者から父がもう2,3日もつかどうか聞こうとしたのですが、あいにく医者は留守でした。

私は医者の家から人力車で駅に行きます。

兄と母に手紙を書いて車夫に渡すと、そのまま東京行の列車に飛び乗ってしまったのでした。

ごうごう鳴る三等列車の中で、私は袂から先生の手紙を出して、読み始めます。

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