夫の死後、いま明かされる真実
さて郁子は五月一日に日記をつけた後、一月あまりも日記を中断していました。
そしてその間に夫は亡くなりました。
最後に日記をつけた翌日の五月二日に夫が二回目の発作を起こして倒れ、まもなく亡くなったのです。
(五月三日の午前三時ごろでした)
夫がいない今、郁子はもう日記をつける張り合いをなくしてしまいました。
けれども正月以来、百二十一日もつけてきた日記がポツリと途切れてしまうのも嫌なので、結末として最後の日記をつけることにしたのです。
そしてそこには、夫の生前には書き記すことを憚っていたことを書き加えて締めくくりにするつもりでした。
六月九日 妻の日記
医者は夫がこんなに早く亡くなるとは思ってもいなかったと言う。
脳溢血は十年前でも一度脳溢血にかかるとそれから二三年、もしくは七八年後に二回目の発作に襲われてその時に亡くなることが多いそうだ。
しかしこれも昔のことで、近年は医学の進歩が著しく、一度かかっても二度目にかからなくなったり、二度目、三度目の発作があっても再起して、天寿を全うする人もいるらしい。
医者は夫も今後数年あるいは、うまくいけば十数年は活動できるだろうと思っていたと言ってくれた。
しかし私にとっては、こうなることは予想していたことだった。
そしておそらく敏子もこうなることを予想していただろう。
さてここからは今まで、妻が日記に書いていたことと、今妻が明かす真実の相違点について告白しています。
まず妻は日記には自分は夫の日記を盗み読みしたことなどない、と書いていましたが、これは嘘。
実は妻は夫が日記の入っている引き出しの鍵を書斎に落としておいた正月よりもずっと前の昔から、夫の日記を盗み読みしていました。
妻は夫と結婚したその翌日あたりから、ときどき彼の日記帳を盗み読みしていたといいます。
木村との関係は夫の日記を読んで触発されたのがきっかけでした。
日記を読んで、夫が妻への嫉妬に掻き立てられて初めてまともに夫婦の行為ができると知った妻は、夫のために他の男性にちょっと興味をもってみるのだ、と思い木村に向かい始めます。
ブランデーで酔って「木村さん」とうわごとを言ったときは半分わざとで、半分夢うつつでした。
あの譫語には、「木村サントコンナ風ニナッタラナア」という気持と、「夫があの人を私に世話してくれたらなあ」という気持と、二つの願望が籠っていたに違いなく、それを分って貰うためにあの言葉を云った。
妻はこう言っています。
敏子はまだあの時まだ家にいたし、ストーブがごうごうと燃えていたのだから、気づかれないように両親の寝室を覗き、夫が私にしていることを見ることもできたはずだ。
木村が夫にポラロイドを貸したのは、夫の歓心を得るためと、ポラロイドでとっているうちに夫がそれで満足できなくなり、普通のカメラで写すようになり、そして夫が木村に現像を頼むようになる。
そうすれば自分が私の裸体写真を手にいれることができると思ったからだろう。
二月十九日に「敏子の心理が読めない」と日記に書いていたが実際はだいたい掴めていた。
私は彼女がわれわれ夫婦の閨房の情景を木村に洩らしたであろうことは、ほぼ推していた。彼女は木村を、心密(ひそ)かに愛しているのであり、それゆえに「内々私に敵意を抱きつつある」ことも分っていた。
彼女は、「母は生れつき繊弱なたちで過度の房事には堪えられないのに、父が無理やりに云うことを聴かせ」ているのであると解し、その点では私の健康を気づかい、父を憎んでいたのであるが、父が妙な物好きから木村と私とを接近させ、木村も私もまたそれを拒(こば)まない風があるのを見て、父を憎むとともに私をも憎んだ。
私はそれを随分早くから感づいていた。
ただ、私以上に陰険である彼女は、「自分の方が母より二十年も若いにかかわらず、容貌姿態の点において自分が母に劣っている」ことを知っており、木村の愛がより多く母に注がれていることを知っているがゆえに、まず母を取り持っておいて徐(おもむ)ろに策を廻(めぐ)らすつもりでいたことも、私には読めていた。
(中略)
敏子が私を嫉妬していたように、私も内心敏子に対してかなり激しい嫉妬を燃やしていた。にもかかわらず、私は努めてそのことを人にも悟らせず、日記にも書かないようにしていた。
それは私の持ち前の陰険性のゆえでもあるが、それよりも、自分の方が娘よりも優れているという自信を持っていたところから、その自尊心を自ら傷つけたくなかったからであった。
なおもう一つ、私が敏子を嫉妬する理由のあること―――というのは、木村が彼女をも愛しているかも知れないという疑いのあること―――を、夫に知られるのを何よりも私は恐れた。
(中略)木村は一途に私一人を愛しているもの、私のためにはいかなる犠牲をも惜しまないでいるものと、夫に思わせておきたかった。
そうでなければ、夫の木村に対する嫉妬が生一本で強烈なものにならないからであった。(中略)
「自分が日記をつけていることを夫に感づかれるようなヘマはやらない」―――「私のように心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向って語って聞かせる必要がある」―――などと云っているのは、真赤な である。私は夫に、私には内証で読んで貰うことを欲していた。(中略)
では何のために音のしない雁皮紙を使ったり、セロファンテープで封をしたりしたかといえば、用もないのにそういう秘密主義を取るのが生来の趣味であったのだ
また郁子(妻)は四月十日になって、始めて夫の健康が尋常でないことを日記に書きましたが、実際はそれの一二カ月前から、それに気がついていました。
夫が自分の健康状態について日記に書き始めたのは三月十日からですから、夫の心身の異変についてについて郁子(妻)のほうが先に知っていわけです。
しかし当初は郁子はそれを夫に気づかせまいとしました。
それは夫がそれに気が付くと房事を控えるようになるからと恐れたからです。
郁子にとって夫の生命の安全よりも性的満足の方が切実な問題でした。
また郁子はこうも言っています。
三月二十六日に私と木村のそらぞらしい門答(「私の夫と木村さんとは一身同体で、あの人の中にあなたもある、二人は二にして一である」というのですね。)が書かれているのは、それをごまかすためである。
しかし三月の下旬に木村と結ばれたとしても、三月中はまだ、夫のために木村を刺激剤として利用しているという意識がどこかにあった。
しかし四月に上旬、四月四,五,六日ころにはそれは無くなった。
その時あたりから私はきっぱりと自分が本当に愛しているのは木村であって夫ではないことを自覚した。
四月十日に自分も体調が悪いことや、自分には死期が近づいているような気がする、と書いたのは全くのウソである。
あれは「私も死を賭しているのだから、あなたもその気におなりなさい」と夫を煽り、夫を一日も早く死なせるために書いたのである。
その後の日記は私の日記はもっぱらその目的のために書かれた。
私は彼を息(いこ)う暇なく興奮させ、その血壓を絶えず上衝させることに手段を悉(つく)した。
そして最後に夫の死という結果となったわけでした。
今後は木村と敏子が結婚した、という形式をとって、郁子(妻)、木村、敏子の三人でこの家に住むことになっています。
敏子は世間体を繕うために、甘んじて母のために犠牲になる、と、いうことになっているわけですが………それは表向きのことだろうと
郁子(妻)は疑っています。
敏子のことや木村のことも、今のところ疑問の点がたくさんある。
私が木村と会合の場所に使った大阪の宿は、「ドコカナイデショウカト木村サンガ云ウカラ」敏子が「オ友達ノ或ルアプレノ人」に聞いて教えてやったのだというけれども、ほんとうにそれだけが真実であろうか。
敏子もあの宿を誰かと使ったことがあり、今も使っているのではないであろうか。
敏子や木村の意図、までは明らかにされずに物語は終わっています。