父の遺言
ところで最近父の体の調子が悪いようなのです。
去年の暮れのあたりから血色が悪く、痩せてきました。
咳や痰はありませんが、微熱があるらしいところを見ると、胸の疾患のようです。
父はちょっと散歩にいってくると言っては、こっそり病院に診察に行きます。
糺(ただす)はそれをかぎつけて医者に父の症状を聞きにいきました。
医者によると、父は不治の病でもう長くはないとのことでした。
糺(ただす)はこう疑います。
若くして未亡人になる継母のことを考えて、血のつながらない妻と息子の関係を強くするために父がしくんだことなのではないか?
また武を里子に出したことも、それと関係があるのではないか?
まもなく父は危篤となりました。
父はこんな奇妙な遺言を残しました。
わしはもう長いことはない。
これが定命やさかい諦めている。
あの世へいったら、前のお母さんが待ってるやろさかい、久し振で逢えると思うと嬉しい。
それよりは、わしはこのお母さんが気の毒でならぬ。
このお母さんはまだまだ先が長いのに、わしがいんようになったら、もうお前より外に頼りにするもんは一人もない。
ついてはお前、このお母さんを、このお母さん一人だけを、大事にしたげてくれ。
お前の顔はわしの顔によう似てると皆がそう云う。
わしもほんにそうやと思う。
お前は年を取れば取る程わしに似て来る。
お母さんはお前がいたら、わしがいるのと同じように思う。
お前はお母さんをそう云う風にして上げることを、この世の中での唯一の生き甲斐にして、外に何の幸福も要らぬ、と云う心になってくれんか
糺(ただす)が頷くと父はさらにこう続けます。
それで、お母さんを仕合せにするためには、お前が嫁を貰う必要があるが、それはお前のための嫁ではのうて、夫婦でお母さんに仕えるための嫁でないといかん。
それにはあの、梶川の娘のお沢と云う子、あの子を考えてるのやが
梶川の娘のお沢というのは、沢子ともいい、糺(ただす)の住む屋敷の庭師の娘でした。
梶川家は祖父の代から糺(ただす)の家の庭師をしています。
娘の沢子(お沢)も毎年葵祭の時に屋敷に遊びに来るので、糺(ただす)とは顔見知りでした。
細面の色白のうりざね顔の美少女です。
糺(ただす)と同じく二十歳でした。
父は糺(ただす)に沢子と結婚するように言ったのち、さらにこう付け加えます。
ただこんなことは、嫁や嫁の親たちに今から知らすに及ばない。
その必要が起こるまで、お前の胸に収めておけばよい。
結婚は早いに越したことはない。
お父さんの一周忌が終わったらただちに式を挙げなさい。
まもなく父は亡くなりました。