谷崎潤一郎『鍵』 あらすじ

夫の体調がおかしくなる

三月十五日(夫の日記)

最近心身の調子が悪い。
僕は中年以降精力減退していたのを、今年になってから木村とブランデーのおかげで妻が満足できるような夫婦の行為ができるようになった。

その上僕は精力の補給をするために、医者に頼んで、月に一回男性ホルモンのデポを用いていた。

それでもさらに不足な気がして、脳下垂体前葉ホルモンを三日か、四日自分で注射している(これは医者に内緒)

そういったもののおかげか、僕は毎晩これまで想像もしたことのないような法悦境に浸っている。

しかし僕はうすうすもこんな幸福はいつまでも続かないと、僕はこの満足のために命を削っているのだ、という予感がしている。

そしてその予感の前触れではないかと思われる現象がすでに発生しつつある。

この間の朝、僕は木村が来たので、ベッドから起き上がって茶の間に行こうとしたとき、奇怪なことが起きた。

起きたとたん、ストーブの煙突、障子、襖、欄干、柱等そのあたりにあるすべてのものがかすかに二重になって見えた。

生活に支障がないからそのままにしているけど、そのなんでも二重に見えるのが今でも続いている。

また時々体が急にフラフラして平行を失い、右か左に倒れそうになる。

また昨日の午後木村に電話をかけようとしたら、毎日のようにかけている彼の学校の電話番号がどうしても思い出せない。

それも一部わからないとかではなく、局番も局名もすべて思い出せないのである。

僕は驚き慌て、今度は木村の勤務する学校名を思い出そうとしたがそれもダメだった。

さらに木村の名前も思い出せない。家で使っている婆やの名前も思い出せない。

妻の亡くなった父や母、敏子が部屋を借りている家の名前、はなはだしきはこの家の所在地の町名が思い出せない。

そんな状態が30分ほどつづいた。

またそんな状態が起きて、今度は30分ではなく、永遠に続いたらどうしよう。

もし妻がこの日記を読んだら僕の体を心配して、夫婦の行為をそれほど求めなくなるだろうか?

いや恐らくそんなことはあるまい。

彼女の理性は制御を命じたとしても、彼女の飽くなき肉体は理性の言には耳を貸さず、僕を破滅に追い込むまでも満足を求めて已まないであろう。

いやそれ以上に僕自身が自分を制御できなくなっている。

三月十四日(妻の日記)

………午前中、夫の留守に敏子が来て「ママに話がある」と云った。何か真剣な顔をしている。何の話かと聞くと、「昨日木村さんの所で写真を見たわよ」と、私の眼の中をじっと視つめた

敏子は昨日木村にフランス語の本を借りる約束をしていたというのです。

しかし木村の家に到着すると木村は留守だったので、本棚から約束の本をとって開いてみると、中に母、郁子の裸体写真が挟まっていたのでした。

敏子は木村と母に不義の関係があるのではないか? と疑っているようです。

ママ、あれは一体どういう意味

と尋ねる敏子に郁子はこう答えます。

私は実は、世の中に私のそういう恥ずべき姿を撮った写真があるということを、今あなたから聞かされるまでは確かには知らなかったのだ。

もしそういうものがあるとすれば、それは私が昏睡している間にパパが撮影したもので、木村さんはただその現像をパパから依頼されたに過ぎない。

木村さんと私との間には断じてそれ以上の関係はない。

パパがなぜ私を昏睡させ、なぜそんな写真を撮り、なぜその現像を自分でしないで木村さんにやらせたか、等の理由は想像に任せる。

現在の娘の前で、これだけのことを口にするさえ私には忍びがたい。もうこれ以上は聞かないでほしい。

ただ、すべてはパパの命令に従ってしたことであり、私はどこまでもパパに忠実に仕えることを妻の任務と心得ているので、いやいやながら云われる通りにしたのであることを信じてほしい。

あなたには理解しがたいことかも知れないが、舊式(旧式)道徳で育って来たママは、こうするよりほかはないのである。

ママの裸体写真がそんなにパパを喜ばすのなら、ママはあえて恥を忍んでカメラの前に立つであろう(後略)

「どうしてパパがママの写真を木村さんに現像させたのか理解できない」という敏子に、郁子は「パパはママを熱愛していて、きっとママの年のわりに若く美しい肉体を他の男性に自慢したいのよ」と夫をかばいます。

郁子はどうして木村さんが、敏子に渡すことになっている本に写真を挟んでおいたのだろうか? と思います。

何か木村さんに思惑があるのでしょうか?

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