小説『梁山伯と祝英台 鳥になって会いに行く 』

「關關(カンカン)たる雎鳩(みさご)は 河の洲にあり」

「窈、窕(ヨウチョウ)、たる、淑、女は、君、子の、よき、つれあい」

「參差(シンシ)たる行菜(みずな)は 左右に之を流(もと)む」

「窈、窕、たる淑、女…… 次なんだっけ?」

「覚めても寝ても之を求む」

「ああ思い出した。 窈、窕、たる、淑、女は、覚めても、寝て、も……之を、求む」

その日も僕は祝君と、
二人の秘密の場所で授業のおさらいをしていた。

明日、
先生の前で暗誦しなければならない詩を、
お互いに一句ずつ互い違いに唱える。

祝君が一説を読み上げると僕は追いかけるように次を続ける。

僕が記憶の中から搾り出すようにとっかえつっかえ読むのに対して、
祝君は流れる小川のように口からすらすらと出てくる。

祝君のまろやかな歌うような声の中で、
詩の中の女の子は桃色の薄絹を翻して軽やかに舞っていた。

一方僕の時は、
がに股で牛のように重たげに歩いている。

「之を求むれども得ざれば、覚めても寝ても思服(シフク)す」

「悠…悠…悠……」

「悠なる哉 悠なる哉、輾轉(テンテン)反側す」

祝君、
一人で勉強してもうすっかり暗記してるんだろう?
と僕が睨むと、
祝君はごめん、
と笑った。

無理に僕に合わせなくてもいい、
それなら別の所をやろうよ、
と祝君でもあまり覚えてなさそうな詩までめくった。

桃の夭(ヨウ)! 夭(ヨウ)たる!
と声を張り上げる。

ここまで元気よく叫んおいて次の字の読み方が思い出せない。

祝君に助けを求めると、
祝君は、ああそれはね……
と僕の本に向かって頭を動かした。

祝君の玉のような肌に映りこんでいた竹の
緑がかった影がちらちらと動いた。

これは「シャク」と読むんだよ、
と教えてくれる。

暖かい息が僕の首元に当たる。

琥珀のような瞳に僕の姿が映る。

見渡す限りの竹林は
僕と祝君を外の世界からすっかり切り離していた。

「祝英台君!
祝英台君!
祝英台君!」

雉のような声が竹林に響いた。

僕達に『礼記』を教えている柳老師である。

祝英台君、
こんな所にいたのか?
と柳老師はみっしりと生えた竹の合間に細い体をくぐらせ、
やってきた。

ほら上虞(じょうぐ)のお父様からだよ、
と祝君に竹簡を渡された。

僕と祝君を順番に何度か見つめ、
ふうん君たちは仲が良かったんだね、
と不思議そうにおっしゃる。

くるりとむこうを向くと、
学舎のある方へとまた鶴のように歩いて行かれた。

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二年生になった頃だった。
学友の金栄らが、
僕と祝君ができている、
とからかうようになった。

その時、
僕は「できている」というのは仲のよい友達という意味だと思った。

うんそうだよ、
僕達できているんだ、
と馬鹿みたいに笑いながら無邪気に答えたものだった。

意味がわかるようになってからは恥ずかしくなって教室ではお互いにしらんぷりをして、
人目を避けて会うようになったのである。

祝君は郷里からの便りを、
象牙色の細い指で優雅にくるくると繰る。

いつもながら本当に読んでいるのかと疑いたくなるような速さだ。

右手の束と左手の束が同じぐらいになった時だった。
祝君はあっ、
と笛のような声をだし、
指を止めた。

どうしたのかと聞くと祝君はなんでもない、
後で読むよ、
と束を纏めだした。

今読みなよ、
僕はその間、
さっきの所を勉強しているから、
と遠慮した。

しかし祝君は、
いやいいよ、
今日はせっかく君と一緒にいられるのだもの、
時間を無駄にしたくない、
と紐をしばり巻物を懐にしまう。

気になったけれど、
祝君の池に張った氷のような美しさに気圧されて、
それ以上聞くことができなかった。

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祝君の飴色の目が宙を泳ぐ。
どこか遠くの、
僕には見えない世界を眺めているようだった。
上瞼の端から端までラクダのようにぎっしり生えた睫毛が、
とんぼの羽のように上下に細かく動く。
睫毛の黒と、
竹の下で青みがった白い肌の対比が鮮やかだった。

祝君が唐突に、
君は結婚についてどういう風に考えているのか?
と聞いた。

頬の火照りを感じながら、
よくわからない、
まだ学生だし考えたこともないよ、
君こそどうなんだよ?
とごまかす。

祝君は一方的に好きな人はいるのだけど、
相手がどう思っているかわからない、
とのこと。

祝君は長く細い首の上に座った、
卵型の顔を僕に真っ直ぐ向ける。

僕をじっと凝視している。

鼻筋には白い光りがすっと通っている。

下瞼から頬の上側にかけては、
頬紅をはたいたかのように赤みがかっていた。

花びらのような唇はしっとりと濡れているようだった。
僕は祝君の隣にいて似合う女の子なんているのかしら、
と思った。

祝君が目をそらして少しはにかみながら言った。
「僕には妹がいるんだ。
僕と同じ顔をしていて、
ちょっと男っぽいのだけど会ってみる気はないかい?」
頬の暑さが益々増し、
体全体に広がる。

僕の顔は今きっと真っ赤だろう。

僕は祝君から顔を背けた。

さわさわと竹の葉がこすれあう音がする。

心臓でどくどくと鳴り響く音が次第に静かになる。

麻の夏服を着た祝君のようなさわやかな風がふいた。

頬の熱も大分ひいてきた。

僕は祝君を振り向いた。

祝君の白目はうるんで黒目が炎の中のガラスのようにグラグラと輝いている。
瞳孔の奥から何か墨色の物が、
矢のように何本も飛んでくる。

寝ぼけて書いたへろへろの字みたいだった。
僕はそれを必死で読み取ろうとする。

けれどもそれは字らしきものへと形を整えるやいなや、
ぐしゃっと潰れてしまう。

頭の中に祝君の声みたいなものが入り込んできた。
それは遠くで聞く囁き声の如く始まり、

除々にはっきりとしてくる。

しかし何とか聞き取ろうとするとすぐに調子が崩れて、
キィンとした耳鳴りの音になってしまう。

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翌日、
祝君は家の商売を手伝うために帰郷することになった、
と言い出し僕を唖然とさせた。

その三日後に祝君は故郷の上虞(じょうぐ)へと旅立った。

祝君が居なくなってもう十日たった。

教室でぼんやりとしていると、
祝君の姿がありありと目の前に浮かんだ。

祝君は今より少し若く、
真新しい淡い藍色の着物を着ていた。

頬をほんのり染めて、
僕の前に立つ。

これから毎日一緒に昼飯を食べないかい?
いいね?

一年生の時に、
そう話しかけてくれたのは祝君からだった。

僕がいいよ、
と言うと祝君はまるで宝物を見つけたかのような嬉しそうな顔で身を躍らせた。

その頃僕は祝君のことを、
あの女の子みたいな顔の、
やたら勉強出来るやつ、
ぐらいにしか思っていなかった。

僕と一緒に昼飯食うのが、
なんでそんなに嬉しいのかしら?
と無感動に思った。

祝君と連れ立って歩いていると
祝君はおずおずと僕に手を差し出してくる。

僕はそれを何となく握る。

きゃしゃでつるつるとしていて、
それでいて吸い付くようだ。

慌てて引っ込めようとすると、
祝君はぎゅっと握りかえした。

さっと春風が吹き、
体が蕩けるような気がした。

あの時、
祝君は僕に全身で好意を示してくれた。

それなのに僕はちっともそれに答えてあげなかった。

胸のあたりが沸々する。

祝君ごめん!

四方は寥々たるススキ野原だ。

祝君の姿が無い。

ぐるりと体を半回転させる。

視界の果てまで見渡したが祝君は見えない。

もう半回転させる。

斜め前に朝露のように小さな祝君が
たたずんでる。

すらりとした背中は
仲間に取り残された白鳥のように寂しげだ。

僕は、
祝君を死に物狂いで追いかける。

僕は祝君にぶつかるように飛びつく。

祝君は長い睫毛で縁取られた、
クリクリとした目をさらに大きくする。

ふっくらとした唇から真珠のような歯をのぞかせる。

次第に口角が上がり目がきらめく。

えくぼがペコンとへこむ。

「ありがとう!
友だちになってくれてありがとう!」

祝君の鐘のような明るい声が耳に響く。

洗いざらしの清潔な袖が首に当たった。

ゴワッとした布はお日様の匂いがした。

滑らかな頬が僕の頬に触れる。

祝君は両腕で僕を羽交い締めにする。

祝君の体温が伝わって来る。

祝君がのしかかってくる。

僕は後ろによろめく。

祝君の体が僕の上に落ちてくる。

僕の胸にふんわりと柔らかいものが触れる。

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後ろから意地の悪そうな笑い声が聞こえた。

振り返れば金栄達だった。

ニヤニヤと歯をむき出して嘲り声を上げている。

悪童達は揃ってしきりに僕の胸元を指さしている。

僕の左手には木簡がにぎられていた。

木簡には六歳の子が書いたみたいな下手くそな字で
上から下までびっしりと、
祝英台、祝英台、祝英台……と書き連ねてあった。

この見覚えのある筆跡は確かに僕のものである。

僕は何か言いたかった。

けれども、
ただただ口を半開きにして下顎をあたあた震わせているだけだった。

カチャリと音がした。

落書きが描かれた板切れが、
僕の前に放り投げられていた。

髪を揚巻に結い上げた二人の素っ裸の人間が、
体を変な風に互いに絡ませ合っている。

貧相な絵だった。

このほっそりとした睫毛の長いのが祝君で、
四角い顔に真ん丸く大きな鼻のたれ目の小太りが僕であろう。

二人の口元からは幽霊みたいな吹き出しがついている。

そこにはミミズののたくったような墨の染みで、
台詞が書き殴られていた。

口に出すのも憚られるような淫らなものばかりだった。

体中をどろどろとした熱い溶岩が流れていく。

怒らねば、
怒らねば、
さあ怒るぞ!

怒鳴り声を出そうとしたのに、
上唇と下唇の隙間に透明な壁があるかのようだ。

言葉が出てこない。

出口を失った憤りの文句は、
また喉に戻り顔に上がって涙となって目から零れた。

ひやかしはカラスの集会みたいで、
刻々とひどくなる。

ああ祝君ならこんな時は高く澄んだ切れ味の良い声で一喝し、
彼らを黙らせるのに!

それでいて最後には皆を笑顔にさせるのに!

やかましいわい!
という雷鳴の如き一声が響いた。

膝近くまである白い顎ヒゲをなでながら
柳老師が教室に入ってくる。

生徒達は水をかけた蟻のように散り、
めいめいの席へと戻る。

柳老師が例の嫌らしい悪戯書きを拾う。

これは金栄君の字だね、
とおっしゃると奴はしなしなと前に進みでた。

僕、
梁と祝が相撲を取っているところを描いただけなんです、
それだのに梁の奴が急に怒り出して……
と柳老師を上目遣いで見つめる。

柳老師は今度やったら退学だぞ、
とねめつけると教壇に立ち、
話しだした。

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「皆と一緒に勉強をしていた祝英台君は、
実は女の子だったんだ」

書生達がどよめいた。

「この度、
彼は、
あ間違えた。
彼女は、
上虞(じょうぐ)のご実家に戻って花嫁修業をすることにされたそうだ」

柔らかな風に乗って薔薇の匂いが教室の中に漂う。

教室の外の海棠の花びらが
柳老師の鏡のような髭に舞い降りた。

「祝君は女の子なのにあんなに優秀なんだ。
みなさんは男の子なのだから、
祝君に負けないよう頑張るように」

窓の外の八重桜は花火のように咲き乱れている。

机の上の陽が当たってちらちらとした所に、
桃色の影が落ちていた。

池をツツジとサツキが囲んでいた。

梅色、
桜色、
八重桜色、
桃色、
紫色、
すみれ色が順番に植えられている。

低く生えた桃の木が水面に映っている。

重なるように浮かぶ濃い緑の、丸い葉の上で、
ぽつぽつと真っ赤な睡蓮が花開いていた。

合間を赤と黒の鯉がすらすらと泳いでいる。

群生した水仙が鯉をのぞきこんでいた。

水辺の鈴蘭が強い香りを飛ばし、
僕の鼻の穴をしっとりと触る。

窓際の仲良く並んだ二輪の芍薬は、
すっかり打ち解けた様子で
薄衣のような幾重にも重なる花びらをすべて開いていた。

淡い黄色の花芯を露にし、
喋々喃々(ちょうちょうなんなん)と語り合っている。

つがいの青アゲハが教室に入ってきた。

二匹は手をつないで踊るようにぴったりとくっついて、
ころころと回りながら
縦横に宙を舞っている。

翌朝僕は鳥になって上虞(じょうぐ)へと飛んでいった。

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