大学時代は月に二回は教会に通った。
下宿から二十分山手線に乗り、
駅から十五分歩いた所の、
戦前からある古い煉瓦づくりの建物だった。
そこで隔週の土曜日の朝十時から
教会で聖書を英語で読む講座をやっていた。
毎年それに出席していたのである。
講座が終わると他の人たちは交流会に昼時の町に繰り出すのだが、
私は遠慮した。
講座の後はいつも人気のない礼拝堂に座り一人祈りを捧げていた。
「神さま、
神さま、
僕の進路はこれからどうしたらよいでしょうか?
就職ですか?
大学院ですか?
それとも公認会計士か税理士?
やっぱり留学がいいでしょうか?
この前のTOFFLEでは○○点だったんですけれど……」
ジャンヌダルクやナイチンゲールのように神の啓示が受けられればいいのに、
そうすれば迷い無くその道に突き進めるのに、
と本気で思っていた。
ほどなく、
天窓からさっと光が入った。
磔にされたイエス像が照らされた。
私はそのとき自分の進むべき道はどれであるか確信した。
私は神さまが私の祈りを聞きいれ、
啓示を与えてくださったのだ、
と喜んだ。
しばらくはその進路に向けて邁進した。
しかし神の啓示を受けた二週間後の、
聖書講座の日にはもう迷いが生じていた。
どうやらしっくりこない、
あれは偽の啓示だったのではないか?
という思いで一杯になる。
そして講座が終わるとまた礼拝堂の固い椅子に座る。
イエス像に向かい、
手を合わせる。
そして二週間前とはまた違う啓示を受け、
意気揚々と下宿に戻るのだった。
迷い多き青春だった。
自分のことで精一杯だった。
人のことなんか気にする暇はなかった。
ただ一人、気になる人がいた。
ケンイチである。
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