彼女の物語は海外遠征(三韓征伐)、内戦も合わせて主に戦いの話でつづられています。
あっさりとした古事記の記述とかなり詳しい日本書紀の記述両方紹介します。
なお黄色いアンダーラインがある部分は私の感想、意見ですので、レポート等に利用される場合はご注意ください。
古事記の神功皇后の物語 新羅征討 帰国後の内戦
神様のお告げ 神功皇后神がかりとなる
或る時仲哀天皇は筑紫の香椎宮でクマソを討つ前に、神託を求めていました。天皇は琴を弾いています。
するとその場にいた神功皇后に神がよりついてこう言いました。
神様
西のかなたに国があります。
金銀をはじめとした目が光り輝くばかりの珍しい宝物がその国にはくさんあります。
私はその国を天皇に授けましょう。
金銀をはじめとした目が光り輝くばかりの珍しい宝物がその国にはくさんあります。
私はその国を天皇に授けましょう。
神のおつげを聞いた天皇は、こう反論しました。
高い場所に登って西のほうを見てもただ海が続きているだけですが……
天皇が自分のいうことを信じないので神様は怒ってしまいました。
神様
もはや、この天下はあなたの統治なさるべき国ではない
まもなく天皇の弾く琴の音が聞こえなくなりました。
天皇は琴の前に座ったまま亡くなっていたのです。
天皇が亡くなったあと、建内宿祢(たけうちのすくね)が再度神託を求めると、神様はこう言いました。
神様
この国は、皇后のお腹の中にいる、男の子の統治する国です
建内宿祢は神様にあなたは誰ですか?と聞くと皇后によりついた神様はこう言います。
神様
この託宣はアマテラスオオミカミのご心意です。
また私は住吉の底筒男・中筒男・上筒男の三大神です。
もし西方の国を手に入れたいとお考えなら、私のいう通りになさい。
また私は住吉の底筒男・中筒男・上筒男の三大神です。
もし西方の国を手に入れたいとお考えなら、私のいう通りになさい。
神様の指示は次のような物でした。
- 天神・地の神、山の神、河、海のすべての神様にお供え物をしなさい。
- 住吉の神様の御霊を西征の船上に鎮座させなさい
- 真木の灰を瓢箪に入れなさい
- 箸と木の葉の皿をたくさん作り、すべて海に散らしうかべて渡航しなさい。
神功皇后の新羅征討
皇后は神様の教えのとおりに、軍を整え、海を渡っていきました。するとなんということでしょう!
海の魚たちが、船を背負って西に行くのを手伝ってくれました。
おまけに強い追い風が盛んに吹き起り、船は波に乗って走ります。
その大波は何と新羅の国に大津波を起こし、国土の半分まで覆ってしまいました。
そこで新羅の王は恐れおののきあっさり服従しました。
(新羅王)
今からは天皇のおっしゃるとおりにします。
我が国は、天皇のお馬の飼育係になります。
毎年船を船の天皇のお国に送ります。
我が国から天皇の国に送る船の腹や棹、舵が乾く暇もないほどに、天地のある限り、永遠にお仕えします
新羅征討も無事に終わり、皇后は国に戻ることにしました。
倭国に戻る前に皇后は臨月となりました。
そこで石を腰につけるおまじないをして、出産を伸ばしました。
筑紫の国に渡ったところで皇后は男の子を生みました。
帰国後の内戦 神功皇后 VS 忍熊王(おしくまのみこ)
皇后はこの男の子は後継者争いの種になるのではと考えました。そこで棺を載せた喪船一艘を仕立て、
「御子はもう崩御された」
と偽の噂をたてました。
それを聞いた香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の二人の皇子(おうじ)が、謀反をおこそうと考えました。
事をおこそうとする前に香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は「うけい狩り」(狩りをしてその出来によって吉か凶か占う)をしました。
その狩りでは大きな猪が香坂王にかみついて殺してしまいます。
うけい狩りの結果が「大凶」だったにも関わらず忍熊王は軍を起こし、皇后を討とうとします。
皇后側の将軍は計略をめぐらせて、
「皇后はもう崩御されてしまった。もう戦いは終わりです」
と嘘を言って、弓の弦を斬りいつわりの降伏をしました。
すると忍熊王は騙されて、自分たちも弓の弦を外し、武器をしまってしまいました。
其の時、皇后軍の兵士たちは髪の中にしまっていた予備の弦を取り出し、ふたたび弓に張りなおすと、忍熊王側を攻撃します。
忍熊王は船に乗って琵琶湖に浮かんで辞世の句を読むと、ともに琵琶湖に身をなげて亡くなりました。
その後建内宿祢は皇后の生んだ太子を連れて、諸国をめぐりました。
うまれてすぐに戦に巻き込まれたことによって、太子が穢れた、とかんがえて、その禊をするために、旅をしたのです。
建内宿祢(たけうちのすくね)と太子は禊の旅を終え、都に戻ってきました。
すると皇后は祝いの酒宴を開き歌を詠みます。
此の御酒(ミキ)は 吾(ワ)が神酒(ミキ)ならず武内宿禰(たけうちのすくね)が、幼い太子に代わって答歌を詠みます。
神酒(クシ)の司(カミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す
いはたたす 少御神(スクナミカミ)の
豊寿(トヨホ)き 寿(ホ)き廻(モト)ほし
神(カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし
奉(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)そ
あさず飲(ヲ)せ ささ
歌の訳
このお酒は私だけの神酒ではありません。
神酒の司である常世の国にいる少名彦(=スクナヒコナ)が、祝いの言葉を述べながら、歌って踊り狂って、醸(カモ)したお酒です。
さぁ、この酒を残さず飲みなさい。さぁさぁ!
日本神話・神社まとめ
此(コ)の御酒(ミキ)を 醸(カ)みけむ人はこのようにおめでたいムードで古事記の神功皇后の物語は締めくくられます。
その鼓(ツヅミ) 臼(ウス)に立てて
歌ひつつ 醸(カ)みけめかも
この御酒(ミキ)の あやにうた楽しさ さ
歌の訳
このお酒を醸した人は、鼓を臼のように立てて、歌って醸したからでしょう。
このお酒の美味しいこと。
さぁさぁ。
日本神話・神社まとめ
日本書紀の神功皇后の物語 三韓征伐 帰国後の内戦
どことなくほっこりとした雰囲気の古事記の神功皇后の物語に対して、日本書紀のそれは戦争につぐ戦争!プロローグ
神宮皇后は開化天皇のひ孫、気長宿禰大君(おきながすくねのおおきみ)の娘です。幼少の頃から聡明で、叡智にあふれていました。
容貌も大変美しく、父王に不思議に思われるほどだったといいます。
夫の仲哀天皇が神のお告げを信じなかったために、崩御されました。
皇后は夫が神の言葉に従わず亡くなったことに心を痛め、自分は神様の言っていた財宝の国を手に入れたいと思います。
そこで罪を祓い、過失をあらため、さらに斎宮(いつきのみや)を小山田邑(おやまだのむら)に作らせました。
皇后は吉日を選んで斎宮(いつきのみや)に入り、自分が神主になって、武内宿禰(たけうちのすくね)に命じて琴を弾かせました。
そして神様にお祈りをします。
この前天皇に神託を授けられたのはどの神様でしょうか?
どうかお名前を教えて下さい。
どうかお名前を教えて下さい。
すると神様はこう言いました。
天照大神
天照大神です
(神功皇后)
この他にも神様はいらっしゃいますか?
この他にも神様はいらっしゃいますか?
すると
- 於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこのいつのことしろのかみ)
- 表筒男
- 中筒男
- 底筒男
この後皇后は神のお告げを得て、お告げの通りに神様をお祭りしました。
九州の戦い
この後皇后は、クマソを討伐にとりかかりました。クマソの国は幾日もたたずに自ら服従しました。
また熊鷲、土蜘蛛、といった九州北部の従わない豪族たちをみな征伐しました。
うけい釣りをする神功皇后
皇后は玉火前国(ひのみちのくのくに)の玉島里(たましまのさと)の小川で食事をします。其の時に皇后は釣りをして、うけいをします。
皇后は縫い針を曲げて釣り針にし、飯粒を餌にして、裳の糸を抜き取って釣り糸にしました。
河の中にある岩の上にのぼると、針を投げてこう祈りました。
私は、西方にある財宝の国を手に入れようとしています。
もしこの願いが成就するなら、魚よ、釣り針を呑みなさい。
もしこの願いが成就するなら、魚よ、釣り針を呑みなさい。
そして竿を上げると、鮎がつれました。
縁起がいいですね。
神田を作る神功皇后
また皇后は西方征討の成就を祈って、神田を作りました。河の水を引いて神田を潤そうと思い、溝を掘ります。
しかし途中を大岩で塞がれていて、溝を通すことができません。
そこで皇后は建内宿祢(たけうちのすくね)に、剣と鏡をささげて神様にお祈りをさせました。
すると突然落雷があり、その岩が崩れ、水が通りました。
神功皇后の男装
また皇后は海辺に行き、髪をといて、もし霊験あるなら、髪よ、自然に分かれて二つになれ
と祈りながら、髪を海入れてすすぎました。
すると髪は自然に二つにわかれました。
そこで皇后は髪をそれぞれに結びみずらにしました。
つまり男性の髪型になったのです。
皇后は群臣にこう宣言しました。
今、征討軍を派遣しようとしている。「もし成功すればそなたたちの功績。もし失敗したら罪は私にある」という謙虚で責任感のある言葉に群臣は感動したことでしょう。
この事を群臣に託した。
もし事が成功しなかったら、罪は群臣にあることになる。
これでは、はなはだ心痛むことである。
私は婦女であり、そのうえ不肖の身である。
しかしながら、しばらく男性の姿となり、強いて雄大な計略を起こすことにしよう。
上は天神地祇の霊力をこうむり、下は群臣の助けによって軍団の志気を振るい起こし、けわしき波を渡り、船舶を整えて財宝の土地を求めよう。
もし事が成功すれば、群臣よ、共にそなたたちの功績となろう。
事が成就しなければ、罪は私一身にある。
どうか群臣よ、共に議せよ。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』ほおずき書籍)
群臣はこう言って皇后に従います。
皇后は天下のために、国家を安らかにはこぶ手立てを考えられました。
一方では、罪は臣下に及ばないとおっしゃっています。
この上は、謹んで詔を承りましょう。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』ほおずき書籍)
準備はちゃくちゃくと
皇后は諸国に命じ船舶を集めて、兵士を訓練させました。しかし兵士の集まりがよくありません。
そこで皇后は大三輪社(おおみわのやしろ)を立て、刀、矛を奉ると兵士が自然と集まりました。
皇后は使者に命じて西の海に国があるかどうか視察させました。
使者は西の海にでかけて、「国は見えません」と言いました。
また別の使者を西の海に派遣するとこう言います。
(使者)
西北の海上はるかに山が見え、雲が横たわっています。
きっとその下に、国があるものと思われます。
西北の海上はるかに山が見え、雲が横たわっています。
きっとその下に、国があるものと思われます。
皇后は戦争の心構えを群臣に言い渡します。
鐘鼓の音が乱れる時には秩序を失い、標識の軍旗が乱れる時には、士卒を統率することはできない。さて、皇后はそのとき臨月でした。
財物を貪り欲深くなり、私事のみを思い妻妾のことに心が奪われると、必ず敵のために虜にされるだろう。
よいか、敵は少なくとも、決して侮ってはならぬ。敵が強くとも、屈してはならぬ。
婦女を暴行する者を許してはならぬ。降服してくる者を殺してはならぬ。
もし戦いに勝ったならば、必ず恩賞を与えよう。
戦場で逃亡するようなことがあったならば、厳罰が下されるだろう。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』ほおずき書籍)
皇后は石を取って腰に挟み、
事をなし終えて帰って来るその日に、ここで生まれますように
と祈りました。
いよいよ出発! 三韓征伐1
皇后はいよいよ対馬から西の海に出発します。出発するなり、奇跡が起こります!
海神が波をあげ、海中の大きな魚が、みな浮かんできて船を西に運んでくれます。
大きな風や波が、舵や櫂を使わずに、船は新羅に到着してしまいました。
其の時船を進めて来た潮流が、新羅の国土まで達しました。
新羅王が
新羅が建国以来、いまだかつて海水が国まで遡ってきたということは聞いたことがない……
と言っていると、船団が海に満ち、軍旗が日に輝き、鼓笛の音が響き、山川がことごとく振動します。
新羅王の前に広がるのは常識では考えられないほどの倭国の大軍でした。
あっさり降伏 三韓征伐2
新羅王はあきらめて、白旗を上げます。そして白いひもで自ら後手に縛り、降伏します。
このときある人が
「新羅王を誅殺しましょうか?」と皇后に尋ねると。
皇后は
私は、出発の前に全軍に号令した際『自ら降伏してきた者を殺してはならぬ』」と言った
と、新羅王の縛を説いて、飼部(みまかい)としました。
皇后は持っていた矛を新羅王の門に建て、国を征服したことの印となりました。
新羅王は王子を人質と倭国に差出し、金銀や宝物を皇后に送ります。
それから、日本書紀の書かれた時代までは新羅から倭国に定期的に多くの貢物の献上があったようです。
さて高麗、百済の二国の王も新羅の情勢をきき、ひそかに偵察に来ました。
倭国の大軍を見て、これは勝ちようがないと思い、王自ら倭国軍の宿営の外にきて、頭を地につけ、
今後は、末永く西蕃(せいばん)と称して朝貢を絶やしません
と言いました。
さて随分と威勢の良い日本バンザイな話ですね。
ほとんど戦わずして三つの国を手に入れています。
朝鮮半島南部の、新羅、百済は当時の倭国よりも国力は弱く、倭国と従属関係にあった時代もありますが、高麗はKOREAという英語のもとにもなった、強国です。
このあたりは結構話を盛っているといえるでしょう。
ちなみに古事記では神功皇后が征服したのは新羅のみでした。
帰国 そして内戦
征服を成功させた皇后は帰国すると筑紫で男の子を生みました。さて皇后が帰国し男の子を生んだ噂をきくと。
麛坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしくまのみこ)の二人の王子が、
麛坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしくまのみこ)
今皇后には男の子が生まれ、群臣は皆これに従っているそうだ。
必ず協議してこの子をを幼い天皇とするだろう。
私たちは兄なのにどうして弟に従うことができるだろうか?
必ず協議してこの子をを幼い天皇とするだろう。
私たちは兄なのにどうして弟に従うことができるだろうか?
そこで天皇の為にお墓を作ると偽り、多数の船を連ねて、淡路島に渡りました。
実際は明石海峡を封鎖するのが狙いです。
そして船に乗った人は一人一人に武器を持たせて、皇后を待ち受けました。
神功皇后の摂政元年、皇后は建内の宿祢と武振熊に命じて、数万人を率いて忍熊王を討たせました。
麛坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしくまのみこ)はこの戦いの前に、うけい狩りをしました。
すると突然猪がやって来て麛坂王(かごさかのみこ)を喰い殺してしまいました。
忍熊王(おしくまのみこ)は
忍熊王(おしくまのみこ)
明石海峡で皇后を待ち受けるのはよくないのでは?
と考え、軍を引き返し住吉(大阪市住吉区)に集結しました。
この時皇后は忍熊王(おしくまのみこ)が兵を起こして待ち構えていることをきき、建内宿祢(たけうちのすくね)に命じ、皇子を抱いて回り道をして都にもどることにしました。
皇后と忍熊王(おしくまのみこ)が対戦することになったのは宇治河でした。
皇后軍は宇治河の北岸に陣を敷きます。
建内宿祢(たけうちのすくね)は自軍の兵士たちにこう命令します。
髪を槌型型に結い、髪の中に予備の弦を隠して置け!
腰には偽の木刀を佩いておけ!
腰には偽の木刀を佩いておけ!
そして建内宿祢(たけうちのすくね)は忍熊王をこう欺きます。
皇后はこうおっしゃっていました。
「わたしは天下を治めるつもりはない。ただ幼い御子を抱いてあなたに従おうと思っているだけだ。ももう戦う必要はありません。お互いに弓の弦を断ち切り、武器を捨てて親しくなりましょう」
「わたしは天下を治めるつもりはない。ただ幼い御子を抱いてあなたに従おうと思っているだけだ。ももう戦う必要はありません。お互いに弓の弦を断ち切り、武器を捨てて親しくなりましょう」
建内宿祢(たけうちのすくね)はこう忍熊王を騙した後、自軍の兵士たちに弓の弦を切らせ、太刀を腰から解かせ、河に投げ込ませました。
忍熊王は建内宿祢(たけうちのすくね)に騙されて、自軍の兵士にも弓の弦を断ち切らせ、また武器を河に投げ込ませました。
忍熊王の兵士たちがみな丸腰になったのを確かめると、建内宿祢(たけうちのすくね)は自軍に命じて、予備の弦を弓に張らせ、隠しておいた本物の太刀を腰に帯させ、宇治河を渡って進軍させます。
忍熊王(おしくまのみこ)
私はすっかり騙された!
武器もないのにどうして戦うことができるだろう?
武器もないのにどうして戦うことができるだろう?
押熊王は逃げて、ついに淡海の海の瀬田の渡に身を投げて亡くなりました。
戦勝
さて皇后たちは押熊王との戦いに勝ちました。皇后が生んだ男の子、ホムタワケノミコが皇太子になりました。
このころ人質にした新羅の王子が新羅に逃亡してしまう、という事件も起きています。
王子が、「使者が言うには父上が、私の國に残してきた祭妻子を奴隷にしてしまったそうです、ほんとうかどうか一度帰国して、確かめたいのですが」と倭国側に嘘を言い、対馬にまで行った。
対馬から、皇子は新羅に逃亡した。
そして協力者たちは、すでに脱出した新羅王子の寝床に人形をおいて、「王子は突然の発病で今や死ぬ寸前です」とごまかした。
皇太后(神功皇后)の摂政十三年のときのことです。
皇太后は建内宿祢(たけうちのすくね)に命令して、皇太子に従わせて、角鹿の笥飯大神(けひのおおかみ)気比神宮(福井県敦賀市曙町鎮座)に参拝させます。
皇太子が戻ってくると、皇太后(神功皇后)は大使のために大殿で饗宴を催しました。
皇太后はさかづきを献上し皇太子に長寿の祝賀をして歌を詠みます。
此の御酒は 吾が御酒ならず武内宿禰が、幼い太子に代わって答歌を詠みます。
神酒の司 常世に坐す
いはたたす 少御神の
豊寿き 寿き廻おし
神寿き 寿き狂おし
献り来し御酒そ
あさず飲せ ささ
訳
この神酒は、私が醸した普通の酒ではありません。
神酒の首長で、常世の国におられる少御神が、豊かに寿ぎ、歌舞して寿ぎ、神として寿ぎ、狂おしいほどに寿ぎ、献上した酒です。
どんどん残さずお飲み下さい。さあさあ。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』ほおずき書籍)
此の御酒を 醸みけん人は古事記では酒の歌で神功皇后の話は終わってしまいますが、日本書記ではまだまだ続きます。
その鼓 臼に立てて
歌いつつ 醸みけめかも
此の御酒の あやに
うた楽し ささ
訳
この神酒を醸し出した人は、その鼓を臼の側に立てて、歌いながら、醸し出したことでしょう。この神酒の何ともいえずおいしいことよ。
さあさあ。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』ほおずき書籍)
「三十九年。この年は、太歳は己未であった。「倭の女王」「難斗米(ナシメ)」「帯方郡」「金印」……このあたりみなさん中学や高校の歴史でおなじみだと思います。
[『魏志』によると、「明帝の景初三年(二三九年)六月に、倭の女王は難斗米等を派遣して、帯方郡に至り、天子のいる洛陽に行くことを求めて、朝献してきた。大守鄧夏は、役人を派遣して倭の使者を送り、洛陽に至らしめた」という]
四十年。[『魏志』によると「正始元年(二四〇年)に、建忠校慰梯携等を派遣して、詔書・印綬を奉り、倭国に至らしめた」という] 四十三年。[『魏志』によると、「正始四年(二四三年)倭王は、また使者の大夫伊声者・掖耶約等八人を派遣して品々を献上した」という]
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』ほおずき書籍)
つまり日本書紀では神功皇后は卑弥呼だと言っているのです。
百済との友好、新羅の謀反
皇太后の摂政四十六年の三月一日に皇太后は倭国の使者を卓淳国(現慶尚北道大邱)に派遣しました。すると、卓淳王が倭国からきた使者にこんなことを言いました。
(卓淳王)
二年前に、三人の百済人が来てこんなことを言ったのですよ
(百済人)
百済王は、東方に日本という大国があることを聞いて、私どもを派遣し朝貢することにしました。そこで卓淳王はこう答えたと言います。
ところが道に迷い、この卓淳に来てしまいました。
もし私どもに道を教えて通行させて下されば、我が王は必ず深く君王を喜ばしいこと思うでしょう。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』)
以前より、東方に大国があることを聞いていた。すると百済人はこう言ったそうです。
しかし、まだ通行することがなかったので、その道を知らなかった。
ただ、海は遠く浪は険しい。
それで、大船に乗って、わずかに通うことができるくらいであろう。
もし途中に港湾があったとしても、船舶がなかったら、どうして到達することができるだろうか。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』)
それならば、今すぐには通行することはできないでしょう。再び国に戻って、船舶を準備し、その後に通行することにしましょう。それを聞いた日本の使者はさっそく百済に使者を派遣し、その王と友好を結びました。
(中略)
もし貴国(日本)の使者が来たならば、必ず我が国にお知らせ下さい。
(宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』)
百済王は大喜びで、使者を厚遇しました。
そして五色の染め絹、角の弓、鉄鋋(ねりかね)などの贈り物を送り、宝の蔵を開きこう言いました。
我が国には、このようにたくさんの珍宝があります。さてここであれ? と思う方も多いと思います。
貴国に献上しようと思っても道が分かりません。
志はあっても、それを実行することができなかったのです。
しかし、今使者に託してすぐに献上いたしましょう。
宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』
百済は新羅征討の際に日本に自ら従うことを約束して、以来朝貢をしているはずですよね。
まるでここの記述では百済と倭国は初めて出会ったようです。
もしかして、あの時の百済や高句麗は日本バンザイ物語の引き立て役としてでてきたのであって、朝鮮半島にある国であれば、どこでもよかったのかもしれません。
四十七年の四月に百済王は倭国に朝貢させました。
その時新羅もともに倭国に朝貢に来ました
皇太后とホムタワケノミコが二国の貢物を調べると、新羅の貢物は珍しい品々がたくさんありましたが、百済の貢物は少なくて粗末です。
そこで百済の使者に訳を尋ねると、
(新羅の使者)
私達は道に迷い新羅についてしまいました。
すると新羅人たちが私たちを捕らえて牢獄に監禁しました。
そして我が貢物を奪い、自国の貢物としました。
そして「もしこのことを漏らせば、日本から帰ってくる日に必ずお前たちを殺してやる」と言いました。
そこで私たちは従うほかなく、粗末な貢物をもって日本にやってきたのです
私達は道に迷い新羅についてしまいました。
すると新羅人たちが私たちを捕らえて牢獄に監禁しました。
そして我が貢物を奪い、自国の貢物としました。
そして「もしこのことを漏らせば、日本から帰ってくる日に必ずお前たちを殺してやる」と言いました。
そこで私たちは従うほかなく、粗末な貢物をもって日本にやってきたのです
四十九年のことです。
貢物強奪事件がもとになったのでしょうか?皇太后は将軍に命じて新羅を再征討します。
(今度は皇太后みずから朝鮮半島に渡ることはしませんでした)
倭国の将軍と百済王と王子がともに戦います。
比自・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅・古奚津・忱弥多礼(済州島の古名)などの国を討伐しました。
一部は百済に授けられました。
比利・辟中・布弥支・半古などの村は自ら降伏してきました。
戦いがうまくいくと百済王と王子、倭国の将軍は顔を見合わせて笑いあいました。
百済に着くと辟支山に登って誓った。それいらい百済は毎年日本に朝貢するようになりました。
また、古沙山(全羅北道古阜の古名)に登り、共に大岩の上に座った。
そして百済王が誓いを立てて、「もし草を敷いて坐とするならば、いつかは火に焼かれてしまうかもしれない。また、木を取って坐とするならば、いつかは水のために流されてしまうかもしれない。それゆえ、磐石を坐として誓うことは、永遠に不朽なることを示します。今後は、千秋万歳に絶えることなく窮まることなく、常に西蕃と称して、春秋に朝貢いたしましょう。」と言った。
そして千熊長彦を連れて、百済の都に行き、厚く礼遇した。
宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』
六十六年。[この年は、晋の武帝の泰初二年(二六六年)である。晋の『起居注』に、「武帝の泰初二年の十月に、倭の女王が通訳を重ねて貢献せしめた」という]ここでも中国の書物にある「倭の女王」と神功皇后を同一視しています。
宮澤 豊穂訳『日本書紀 全訳【上巻】』
六十九年に神功皇后はなくなりました。
御年百歳でした。