夏目漱石『こころ 下 先生と遺書』詳しいあらすじ

夏目漱石『こころ 下 先生と遺書』詳しいあらすじ

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夏目漱石『こころ』あらすじ 登場人物紹介
夏目漱石『こころ』あらすじ 登場人物紹介

列車の中で私は先生からの手紙を読みます。

そこには先生の過去が余すことなく書かれていました……

先生と先生の叔父さん

先生の両親は先生がまだ20歳になる前に亡くなりました。

両親ほぼ同時期に亡くなったのです。

先生の家には財産がありましたので、先生は鷹揚に育てられました。

亡くなる前に母は叔父にそこに居合わせた先生を指差して、「この子をどうぞ何分」と言いました。

その後母は「東京へ」と付け加えました。

叔父は「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。

両親を亡くした先生は叔父を頼るしかありませんでした。

叔父もまた一切を引き受けて、先生のすべての世話をしてくれました。

そして先生を東京の学校に通えるようにとりはかってくれました。

先生は東京で学生生活を送り、必要なものがあれば叔父に請求します。

叔父はこころよく送金してくれて、先生は他の学生からうらやましがられるような豊かな学生生活を送ります。

叔父は事業家で、政治にも興味を持ち、県会議員になったこともありました。

そして先生の父親とも仲がよく、信用されていました。
先生は叔父に感謝をし、また信じきっていました。

そんな風でしたから先生は叔父のことを疑ったことなどありませんでした。

先生が夏休みに東京を出てから初めて帰省すると、もともと両親の家だった家には叔父の家族が住んでいました。

しかしそれは先生も納得してのことでした。

当時の田舎では相続人のある家を売ったり壊したりするのは大事件でした。

先生は自分の代わりに叔父が住んでくれるおかげで、自分が東京に出られるのでむしろ喜んでいました。

休暇になり故郷に戻ると、戻ってきたきた先生を叔父たちは歓迎してくれます。

もともと先生が住んでいた部屋には叔父の長男が住んでいたのですが、叔父は「これはもとは君の部屋だったのだから」とは長男を部屋から追い出して、先生のために空けてくれるぐらいでした。

先生に縁談が

しかしその夏先生にとっていやなことがありました。

叔父がしきりにまだ高等学校に入ったばかりの先生に結婚を勧めるのです。

それは三度も四度も繰り返されました。

叔父夫婦はこう言います。

「早くお嫁さんをもらって、ここの家に帰ってきてお父さんの財産を相続しなさい」

しかし学問をしに東京へ出たばかりの先生には結婚なんて遠い先の未来に思えました。

そこで叔父の話は断って東京に戻りました。

一年後先生はまた故郷に帰りました。

叔父はまた縁談の話をします。

こんどは具体的な相手をすすめてくるのでした。

それは叔父の娘でした。

叔父によれば先生と叔父が結婚すればお互いのためによい。

それに先生の父も生前そんなことを言っていたというのです。

しかし子供の頃からその従妹と親しかった先生は彼女を女性として見ることができません。

その理由を先生に言わせれば

あなたもご承知でしょう、兄妹の間に恋の成立した例のないのを。

私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えています。

香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう際きわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。

一度平気でそこを通り抜けたら、馴れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺して来るだけです。

先生はどう考え直しても、この従妹を妻にする気にはなれませんでした。

先生は叔父に従妹との結婚の話を断りました。

叔父に財産を横取りされる

一年後の夏休みに先生はまた故郷に帰りました。

しかし帰郷後まもなく叔父夫婦の態度が以前と打って変わって冷淡なことに気がつきます。

叔父夫婦だけでなく、叔父夫婦の子供もよそよそしくなっているのでした。

そんな中、先生は両親の墓参りをしながらふと気がつきます。

今まで叔父任せにしていた家の財産について急に気になったのでした。

叔父をつかまえて財産の話をしようと思いますが、叔父はなかなかつかまりません。

叔父は仕事の都合で近くの市にも家を持っているのですが、いつも「忙しい、忙しい」と言って、二日家へ帰ると三日は市で暮らすといった風でした。

先生は叔父が忙しい、忙しいと言っているのは、自分が財産の話を持ちかけられるのを避けるためではないか? と疑います。

先生は叔父が市の方に妾を持っている、また一時期事業で失敗しかかっていたようなのにここ二三年来でまた急に盛り返していた、などという噂を人から聞きます。

先生はこういった噂を聞いて、叔父が父親の財産で妾の世話をしたり、事業資金にしているのではないだろうか? と疑念を持ちます。

先生は叔父と財産のことで談判を開きますが、叔父は先生を子ども扱いしてまともに取り合ってくれませんでした。

結果として、とんでもないことがわかりました。

叔父は先生が東京に出ている三年間のうちに、本来は先生のものになるはずだった遺産を、大部分自分のものにしてしまっていたのです。

また自分の娘を先生と結婚させようとしたのは先生の遺産目当てだったのです。

泣き寝入りするか、叔父に訴訟を起こすか、先生は迷いましたが、結局前者を選びました。

訴訟にすると落着まで長い時間がかかり、学業にさしさわりが出ます。

だいぶ叔父に奪われてしまったとはいえ、遺産の利子で学費や生活費を余裕をもってまかなえました。

大部分叔父に取られてしまったとはいえ、先生が受けとった遺産も少なくないものだったのです。

(叔父さんはまだ子供だし、それなりの量の遺産を渡しておけば誤魔化せるだろう、ぐらいに思っていたのでしょう。
また自分の娘と結婚させようとしたのは、そこまで親族関係が深くなれば「俺のものも君のものみたいなものだからいいじゃないか」、などとうやむやにする為だったのかもしれません)

先生は叔父たちに失望し、故郷を捨てることを決めました。

先生は友達にたのんで、土地などの財産をすべてお金や債権など持ち運びできるものに換えて故郷を離れました。

軍人の未亡人の家に下宿 新しい生活をスタート

ほかの学生よりだいぶ経済的に余裕のある先生は、騒々しい今の下宿を出て別の下宿で暮らそうと考えます。

先生が選んだ家は軍人の未亡人(奥さん)と娘さん(お嬢さん)が住んでいる郊外の家でした。

軍人だった夫は日清戦争で亡くなったそうです。

彼らも一年ほど前に引越してきたそうですが、寂しい場所にある家に住んでいるのは奥さんとお嬢さんと女中さんだけで、無人で淋しくて困るので下宿人を探しているそうです。

(今より治安がよくなかったためか、淋しい場所に女性だけでしかも少人数というのは心細かったのかもしれませんね。

また戸締りの技術が今より未発達だったのでしょうか?

治安が心配なときに、戸締りを強化するより、男性にきてもらう、という発想があったようです。

「先生と私」では先生が夜外出して、奥さんが留守をすることになった夜に、先生が私に頼んで奥さんと留守番をしてもらう、というのがありましたね)

恋に落ちた先生 性格も明るくなりました

軍人の奥さんは気丈そうな男勝りな女性でした。

先生の下宿となった部屋の床の間には生け花が飾られ、琴がたてかけられていました。

先生はそれを見て若い女性の存在を感じ取りました。

まもなく琴の持ち主であり、生け花を生けた人が現れました。

奥さんの一人娘のお嬢さんと顔を合わせました。

お互いに恥らいながら挨拶をします。

お嬢さんは奥さんとはまた違うタイプのかわいらしい女性です。

活花はしおれるころにはまた新しいものに変えられます。

琴はたびたび先生の部屋から持ち出されて、そのたびにお嬢さんが琴を練習する音が聞こえました。

先生は父親の影響で活花に詳しかったのですが、お嬢さんの活花は上手ではありませんでした。

また琴については先生はあまりよくわからないのですが、あまり複雑な弾き方をしないところから、なんとなくあまり上手でないことがわかりました。

しかし先生はお嬢さんのことが好きになってしまったのでしょう。

お嬢さんの下手な活花を喜んで眺めて、上手でない琴の音に喜んで耳を傾けるようになりました。

先生は叔父に裏切られたこともありその頃は人間不審でした。

たとえば電車にのっても周囲が人を騙す悪人のように思えて、ぴりぴりとした毎日を送っていました。

そんなその頃の先生がなぜ女性に恋をするような余裕ができたのでしょうか?

それは奥さんの言葉の暗示効果があったようです。

奥さんは先生のことを「あなたは鷹揚だ」と褒めるのです。

先生の他に下宿人の候補がいたのですが、その人は給料が少ない役人で、その人に比べると私が経済的に豊かなためか、暮らしぶりがせこせこしていないので、それで奥さんは「あなたは鷹揚だ」と言うのでした。

「あなたは鷹揚だ」と言われ続けているうちに自分でもそんな気がしてきた先生は、前よりも性格が明るくなります。

先生は奥さんやお嬢さんと親しく会話したり、お茶をしたりするようになりました。

お嬢さんが一人で先生の部屋にやってきて、二人きりでおしゃべりをすることも多くなりました。

先生はお嬢さんと出会うまで、「女というものはどうせ愚なものだ」と女性蔑視なところがありました。

しかしお嬢さんにはそんな馬鹿にしたような考えを持つことができませんでした。

先生はお嬢さんにほとんど信仰に近い愛をもつようになりました。

奥さんも先生とお嬢さんを接近させたがっているようです。

しだいに奥さんは先生を強く信頼するようになりました。

先生はあるとき奥さんとお嬢さんに故郷でおきた事件を全て話します。

奥さんはそれ以来私を身内のように取り扱うようになりました。

お嬢さんへの恋心はつのるけれども

先生のお嬢さんへの恋心は日に日につのり、先生はいっそのこと奥さんにお嬢さんをお嫁に下さいと言おうかとも考えます。

しかし先生はこうも思います。

もしかして二人は示し合わせて自分がお嬢さんと結婚したくなるように仕向けているのではないか?

奥さんもお嬢さんも経済的には将来に不安がありそうです。

先生とお嬢さんが結婚すれば彼らにとっては経済的に美味しいのでした。

過去に叔父さんに裏切られた経験がある先生は、「そうかもしれない、そんな手には乗りたくない」と思いお嬢さんに結婚を申し込むのはやめにしました。

ある日奥さんが先生に本ばかりでなく、たまには着物を作ったら? とアドバイスします。

先生はまだ学生の自分は着物にそんなに気を使う必要はないと思っていたので、着物を作る気はありません。

また本も買ったけれど読んだこともないものがたくさんあります。

そこで先生は自分の着物や本の変わりに「いつも世話になっているから」という理由でお嬢さんに反物を買ってあげることにします。

買い物は奥さん、奥さん、先生の三人で出かけました。

もともと美少女の上にお化粧をして着飾ったお嬢さんはよく目立ち、道行く人が振り返ります。

買い物に行ったのは土曜日だったのですが、先生が月曜日に学校に行くと、学友が「君、いつ奥さんをもらったんだい?」「美人の奥さんだね」などとからかいます。

先生が下宿に行って奥さんとお嬢さんにその話をします。

奥さんは笑います。

お嬢さんは「あんまりだわ」とかわいらしく怒ります。

先生は奥さんにお嬢さんの結婚についてどういう風に考えているか、などと聞いて奥さんの考えを探ります。

奥さんは「縁談がないこともないが、自分の娘は美人だからその気になればいくらでも相手が見つかると思っているから、そんなに急いでない」と答えます。

奥さんは先生のことを意識しているくせにそのことは口に出しません。

また先生も一般的な話をするのみで自分のお嬢さんへの気持ちはおくびにも出しません。

K

そんなふうにぐずぐずしているうちに、別の男が下宿にやってくることになりました。

その男はKと言いました。

先生との子供の頃からの仲良し、つまり先生と同郷でした。

浄土真宗のお坊さんの次男でしたが、中学生のときに医者の家に養子になりました。

父親も養父も財産家です。

先生と少し時期をずらして東京に出てきて、一時期先生とはルームメイトでした。

田舎から東京に出てきた二人の青年は六畳間で天下を睥睨するようなことを語り合います。

二人とも将来は立身出世する気持ち満々です。

特にKの志は高いのでした。

寺に生まれた彼は常に「精進」ということばを使いました。

そしてKは有言実行でした。

先生から見てもKの行動は悉く「精進」の一言で形容されるように見えたのでした。

先生はKを畏敬していました。

Kは普通の坊さんよりも坊さんらしいと先生には見えるほどでした。

Kの養家はKを医者にするつもりで、Kを東京に遊学させたのですが、Kは医者になるつもりはありませんでした。

Kは養親には医学の勉強をしていると嘘をついて別の学問をしていました。(おそらく哲学系でしょう)

私は彼に向って、それでは養父母を欺あざむくと同じ事ではないかと詰なじりました。

大胆な彼はそうだと答えるのです。

道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。

その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。

私は無論解ったとはいえません。

しかし年の若い私たちには、この漠然ばくぜんとした言葉が尊っとく響いたのです。

よし解らないにしても気高かい心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組いきぐみに卑しいところの見えるはずはありません。

私はKの説に賛成しました。

私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。

先生は自分がKに賛成したことによって、自分もKの決意について少なからず責任を負うことになると自覚していました。

養親に医学を学んでいるといつわってKは自分のやりたい学問を続けますが、高等学校3年目の夏休みにKは本当は医学を学んでいないことを養親に手紙で白状してしまいました。

養親は大変怒り、経済的な援助は途絶えます。

先生はKの行く道に賛成したという、責任感もあり、Kに経済的援助を申し出ます。

するとKはそれを断りました。

Kは友達にお金のことを援助してもらうよりも、自活した方がましと考える人でした。

私はKのプライドを尊重して金銭の援助をする提案はひっこめました。

Kは間もなくアルバイトを始めましたが、勉強は今までと変わりなく続けました。

私はKの体を気遣いましたが、Kは気にも止めません。

Kと養家の関係はだんだん悪くなりました。

ある人がKに帰国を促しましたが、Kは聞き入れません。

ついにKは復籍(養親との関係が切れて実家に戻ること)し、実家がKの学費を養家に賠償しました。

そして実家もKを勘当しました。

Kの実母は早くに亡くなっています。

他家に嫁いだKの年の離れた姉がKを心配する手紙を先生に送ってきますが、彼女の嫁ぎ先は余裕がないので、Kを援助することはできません。

アルバイトをしながらも以前と同じ勢いで勉学に励むKは、次第に疲労のためか、精神的におかしくなってしまいました。

Kの復籍したのは一年生の時でした。

それから二年生の中頃になるまで、約一年半の間、彼は独力で己おのれを支えていったのです。

ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。

それには無論養家を出る出ないの蒼蠅うるさい問題も手伝っていたでしょう。

彼は段々感傷的センチメンタルになって来たのです。

時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているような事をいいます。

そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。

それから自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退のいて行くようにも思って、いらいらするのです。

学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮あせり方はまた普通に比べると遥かに甚しかったのです。

私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。

先生はKにもうアルバイトはやめて、当分ゆっくりした方が将来のためだと説得しました。

強情な彼を説き伏せますが一筋縄ではいきません。

Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。

意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。

それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。

普通の人から見れば、まるで酔興です。

その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。

彼はむしろ神経衰弱に罹かっているくらいなのです。

先生はKを説得するために、
「君の言うことはもっともだ、僕も君のような生き方をするつもりだ。
志を同じくする者同士一緒に頑張ろう。
だから……」とKに自分と一緒に住むように説得します。

Kは先生の住む下宿で暮らすようになりました。

先生はKに現金を渡しても受け取らないだろうと思ったので、自分の下宿につれてきて、後は奥さんにKの下宿代をこっそり渡すことでKを援助しようと考えたのです。

奥さんはKが住むことに反対しました。

そんな気心の知れない人を住まわせるのはいやだというのです。

先生が奥さんに「私だって最初は気心の知れない人だったじゃないですか」と言うと、「いやあなたは初めて会った時から気心がよく分かっていた」と言います。

それに「そんな人をこの家に住ませるのはあなたにもよくありませんよ」と言います。

先生がその訳を聞いても奥さんは理由を教えてはくれません。

ようやく奥さんを説き伏せて、Kが引っ越してきました。

先生は奥さんとお嬢さんにKの境遇を話して、「親切にしてあげて下さい」と頼みます。

奥さんの家に移ってきてKの暮らしは段違いによくなりました。

それまではKは日当たりが悪くて湿っぽい汚い家に住んでいて、食事も粗末だったのです。

それに先生が言った通りに、奥さんとお嬢さんはKに親切です。

しかし新しい生活に対するKの感想はただ「悪くない」というものでした。

寺出身であり、宗教上の偉人の人生に感化されていたKは衣食住の豊かさに重きをおいていないのでした。

私は精神が弱っている彼を気遣ってなるべくKに逆らわないようにします。

先生はこう考えているのでした。

先生もこの下宿に来るまで人間不信におちいった暗い人間だったのです。

それがこの家で奥さんに「あなたは鷹揚な人」と言われているうちにだんだん快活になったのです。

先生はこの家に住むことによってKにも同じような効果があることを期待していたのでした。

先生は奥さんとお嬢さんになるべくKと話してやるようにと頼みました。

学問に打ち込むKは長い間誰とも話さないような生活を続けていたのですが、それがKの精神に悪影響を及ぼしていたのでは、と先生は考えていたのでした。

しかし奥さんとお嬢さんはKは取りつく島もない人だ、と言います。

例えばあるときお嬢さんがKの部屋の火鉢に火があるかどうか尋ねました。

するとKはないと答えました。

お嬢さんがKにでは持ってきましょうか? と尋ねると、Kはいらないと言ったそうです。

お嬢さんが「寒くはありませんか?」と尋ねると、Kは「寒いけれどいらないんだ」と言ったとか。

先生は苦笑して、これではKと女性二人が交流するのは難しいだろうと思います。

そこで先生は自分が中心になってKと女性二人の交流を促すようにしました。

例えば自分がKと話しているときに女性二人を呼び出すとか、また自分と女性二人が話している場所にKを連れてくるとか。

最初はKは嫌がりました。

先生と女性たちの会話を無駄話と思ったようです。

しかし次第にKは変わっていきました。

あるときKは先生にこんなことを言いました。

「女はそれほど軽蔑すべきものでもないかもしれない。
以前自分は女にも自分と同様の知識や学問を要求していて、女がそれを持っていないことに気が付くとすぐに軽蔑していたが、いまでは性別によって違うものの見方も尊重すべきだと思うようになった。
もし男同士で議論しているだけだったら二人はただ直線的に先に延びていくにすぎないだろう。
女性の考え方も有意義なものなのでは? と思うようになった」

嫉妬

ある日先生は帰りが遅くなりました。

下宿に帰り玄関の戸を開けると、お嬢さんの声が聞こえます。

声はKの部屋から聞こえてきたのでした。

私がKの部屋の戸を開けるとそこにはお嬢さんとKが座っていました。

奥さんも女中さんも出かけていて留守です。

私はお嬢さんに奥さんが何処に行ったか聞いても、お嬢さんは笑うだけで何も答えません。

私はKとお嬢さんが二人きりの家で一つの部屋にいたと思うと気になってしかたがありません。

一週間ぐらいして先生はまた同じ状況に出くわします。

お嬢さんはなぜか私の顔をみて笑います。

気がかりでならない私はKを散歩に連れ出します。

Kに奥さんやお嬢さんのことをどう考えているか? という質問をして遠まわしに探りを入れようとしますが、Kは要領の得ない簡単な返事しかしません。

Kの返事を聞く限り、Kは二人の女性のことよりも自分の学問のことに意識を向けているようでした。

先生とKは大学二年生の試験を済ませました。

後一年で卒業できます。

そして同時期にお嬢さんも女学校を卒業するのです。

そんな時にKは私に向かって、女というのは何も知らないで学校を出るのだ、と言いました。

依然として女を軽蔑しているように見える、彼。

お嬢さんを物の数とも思っていないらしいKを先生は好ましく思います。

Kが自分の恋のライバルになりそうにないことを確かめて嬉しく思うのでした。

房総半島への旅行

私はKに夏休みにどこかに行こうと誘います。

Kは断ります。

「この部屋で勉強していた方がよい、行きたいなら君ひとりで行けばいいじゃないか」と言いますが、先生は自分が避暑に行っている間に、Kと御嬢さんの仲が進展したら……と思うととてもKを置いては行けませんでした。

「一緒に行こう」「いや行かない」といういつ果てるともわからない二人の議論は奥さんによって終わりました。

結局私とKは房総半島に旅行に行くことになりました。

房総半島の沿岸を二人は旅します。

魚臭い匂いのする寂しい漁村、歩くとすぐ怪我をしてしまう岩がごろごろの浜辺を進みます。

私は「もし隣にいるのがKではなくてお嬢さんだったらどんなに嬉しいだろう」などと考えたり、もしかしたら相手もそう考えているのかも、などと思います。

Kの心のなかに思いを巡らせて落ち着きません。

そのころは精神的におかしいのはむしろKよりも先生でした。

こんなこともありました。

ある時私は突然彼の襟頸えりくびを後ろからぐいと攫つかみました。

こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。

Kは動きませんでした。

後ろ向きのまま、ちょうど好い、やってくれと答えました。

私はすぐ首筋を抑おさえた手を放しました。

先生は思い切ってKに自分のお嬢さんへの思いを打ち明けてしまおうかとも思いました。

しかしなかなかきっかけがつかめませんでした。

当時の若者は友達に恋愛のことを話すことなどあまりありませんでした。

それにKの態度は常に高踏的で恋愛の話題を話すような雰囲気ではありませんでした。

それゆえに私は「Kは恋愛に興味なんかないんだ。そんなKと御嬢さんがどうにかなるはずなんかないんだ」とほっとしますが、すぐにまた疑いがわいてきます。

私はこんなふうにKに嫉妬もしてしまいます。

容貌もKの方が女に好かれるように見えました。

性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。

どこか間が抜けていて、それでどこかに確しっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。

学力になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。

うだるような暑い日そんなことを考えながら浜辺を歩く先生。

だんだん精神も肉体もおかしくなってきてしまいます。

旅の途中で日蓮の生まれたという寺に行きました。

その晩Kは先生相手に延々と日蓮の話をします。

けっこう難しい話題がでましたので取りあわないでいるとKは先生に「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」と言いました。

その時先生はKに弁解するためにしきり「人間らしい」という言葉を使いました。

するとKは先生に「この人間らしいという言葉のうちに、君が自分の弱点をすべて隠している」と言います。

先生はKに「君は人間らしくないね」と言い返しました。

Kが「俺のどこが人間らしくないのか?」と聞きます。

先生はこう言いました。

君は人間らしいのだ。

あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。

けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。

また人間らしくないように振舞おうとするのだ。

先生がそういうとKは「俺は自分の修養が足りないから、他にはそう見えるかも知れない」と言って黙ってしまいました。

先生は張り合いがなくなり、Kが気の毒になってしまいました。

議論はそこで終わり二人は眠りにつきました。

先生とKは翌朝からはまた房総半島の縁を熱さに耐えながら歩きました。

旅をつづけながら、先生はしばしば日蓮の生まれた寺を訪れた晩の、Kとの議論を思い出します。

先生はしばしば後悔しました。

あの晩「人間らしい」という言葉がでたときに自分のお嬢さんへの想いをKに打ち明けてしまえばよかったのに、と思ったのです。

先生とKは、結局お嬢さんの話は一切せずに東京に戻ってきました。

旅行から帰ってくるとお嬢さんが二人が旅装を解くのを手伝ってくれます。

その時お嬢さんがさりげなく先生の方を先にして、Kを後回しにします。

全く露骨ではなく、先生だけにわかるぐらい自然でした。

先生はとても嬉しく思います。

内心Kに対して勝利を感じます。

先生の苦悩

しかし新学期になってから先生はまたお嬢さんとKが一緒にいたり親しげに話したりする様子を頻繁に見るようになりました。

先生は不安でしかたありませんが、自分がKをつれてきたことを考えると、Kに出て行ってもらうように頼むことはできません。

そんなある日、先生は散歩中に、Kと一緒に御嬢さんが歩いているのを見かけてしまいます。

先生が家に戻ってから、Kに「お嬢さんと一緒に外出したのか?」と聞くと、Kは「いや外出先で偶然出くわしたから一緒に帰ってきたのだ」と答えます。

私は今度はお嬢さんにむかって同じ問いをなげかけました。

するとお嬢さんはまた笑って、「どこへ行ったかあててみてください」などと言います。

先生はいらいらします。

またKへの嫉妬で気がおかしくなりそうです。

ついに先生はこの苦しい思いから逃れるために、奥さんに「御嬢さんをお嫁さんに下さい」と言おうかと考えだします。

しかしなかなか決心がつきません。

お嬢さんはもしかしたらKを愛しているのかも……他の男を愛している女を妻になんかしたくない、という思いがありました。

年があけてお正月になりました。

家でカルタ取りをすることになります。

先生がKに「百人一首の歌を知っているか?」と問うと、Kは知らないと言います。

お嬢さんがそれを先生がKを馬鹿にしたと思って、Kに加勢します。

カルタは結局、まるで先生対Kとお嬢さんの対戦、になってしまいました。

Kの告白

それから二日後、奥さんとお嬢さんが親類の家に出かけているときでした。

先生が部屋にいると隣の部屋のKがいきなり襖をあけて先生と顔を見合わせました。

それからKは仕切りに御嬢さんと奥さんの話をします。

日頃お嬢さんと奥さんに興味がなさそうなKがそんな話ばかりするので不思議に思っていると、ついにKは自分のお嬢さんへの切ない恋心を先生に打ち明けたのです。

先生はあまりのショックに結局自分のお嬢さんへの想いは打ち明けずじまいでした。

冬休みが終わり学校が始まりました。

ある日先生はKに「君のお嬢さんへの想いは自分にだけ打ち明けているのか? それとも奥さんやお嬢さんにも言っているのか?」と聞きます。

Kはまだ先生以外には誰にも言っていないと答えます。

先生はほっとします。

先生はKにこれからどうするつもりなのか? と尋ねます。

Kは何も答えずに黙って下を向いてしまいました。

先生はKに「何も隠さずに自分にすべて話してくれ」と言います。

(ここまで相手から聞き出そうとしておいて、自分の想いは言わない先生。
よくありませんね。
先生がその後お嬢さんをすっぱりあきらめない限りKとの友情は壊れてしまうでしょう)

恋敵を打ちのめす先生

ある時先生は図書館で勉強をしていると、Kに声をかけられます。

Kは先生に「一緒に散歩をしないかい」と誘うのでした。

二人は上野公園をつれだって歩きます。

Kは先生とある話をしたくて先生を誘ったのでした。

Kは先生に「恋に落ちて苦しんでいる僕は、君にどういう風に見えているかい?」と聞きます。

Kは恋のために平素とは違う自分を先生に批評してほしいようなのです。

その後こんな会話になります。

先生 「どうして僕の批評が必要なんだい?」

K 悄然とした様子で「自分の弱い人間であるのが恥ずかしい。そうして迷っているから自分で自分が分からなくなってしまったので、君に公平な批評をしてもらうしかない」

先生「迷う、とはどういう意味なんだい?」

K「進んでよいか、退いていいか、それに迷うのだ」

先生はハラハラです。

Kがお嬢さんに向かって進むのは何としても阻止しなけれなりません。

先生「退こうと思えば退けるのかい?」

Kは涙目で「苦しい……」

もしKの恋の相手がお嬢さんでなかったら先生は親友にどれだけ優しく慰めてあげられたでしょうか?

しかし今はそれどころではありません。

先生はこの時Kのことを弱みを全開にさらした敵として見ていたのです。

私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。

そしてKはそのことを知りません。

親友だと信じている先生に自分の苦しい思いを打ち明けて助けてもらおうと思ったのです。

しかしそんなKに先生は同情をすることはありませんでした。

Kが理想と現実の間に彷徨ほうこうしてふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。

そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。

私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。

無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。

そしてKに向かって無慈悲な一撃を……

先生はKに「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」といい放ちます。

それは房総半島旅行中にKが先生に言った言葉で、Kの人生論そのものでした。

それを弱っているKに投げつけたのです。

ふらふらとしているKに向かって先生は再度こう言い放ちます。

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

そしてKの反応を観察する先生。

お嬢さんへの恋の為に、先生はここまで親友に冷酷になってしまったのです。

「馬鹿だ」とKは答えました。

「僕は馬鹿だ」

Kはぴたりとそこへ立ち止まってしまいました。

じっと地面を見つめています。

そろそろと二人は歩き出します。

先生はKが次に何をいうか待っています。
K「もうその話はやめてくれ」

先生「止やめてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」

私がこういった時、背の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。

彼はいつも話す通り頗すこぶる強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質たちだったのです。

私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然そつぜん「覚悟?」と聞きました。

そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。

彼の調子は独言ひとりごとのようでした。

また夢の中の言葉のようでした。

話はそこでお終いになりました。

二人は下宿に戻ります。

先生の決断

先生はKに勝ったという思いがありよい気分でした。

しかし翌日になると今度はKの「覚悟ならない事もない」という言葉が気になってしまいました。

もしかして覚悟とはKがこれから恋に生きる覚悟をしたという意味ではないか? と疑いだします。

Kは自分の信じる道のためなら、平気で養父をだまし、また貧苦に耐えて突き進む男です。

その情熱がお嬢さんとの恋に向けられたら、超強力なライバルになってしまうではないですか?

私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。

私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。

私はKより先に、しかもKの知らない間まに、事を運ばなくてはならないと覚悟を極きめました。

私は黙って機会を覘ねらっていました。

しかし二日経たっても三日経っても、私はそれを捕まえる事ができません。

私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。

しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風の日ばかり続いて、どうしても「今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。

私はいらいらしました。

先生はついに耐えられなくなって仮病を使いました。

その朝先生は、奥さんやお嬢さんやKから「起きろ」と言われても、生返事をしただけで十時ごろまで布団をかぶって寝ていました。

お嬢さんとKが出かけてしまった後を見計らって、先生は起き上がります。

そして奥さんに給仕をしてもらいながら食事をします。

食事が終わっても立ち上がらない先生に、奥さんは「何か特別な用事でもあるのですか?」と尋ねます。

奥さん「何か特別な用事でもあるのですか?」

先生「あの……少しお話ししたいことがありまして……」

奥さん「何ですか?」

先生「えっと……あの……Kが近頃何か言いはしなかったですか?」

奥さん「何を?」

先生「あなたには何かおっしゃったんですか?」

先生「……いいえ」

奥さん「そうですか」

そんな会話の後先生は突然に奥さんにこう言いました。

先生「奥さん、お嬢さんを私に下さい! 下さい! ぜひ下さい! 私の妻としてぜひ下さい」

前置きもなくいきなりこんなことを言うのですから奥さんは面食らった様子です。

しかし先生に「よく考えたのですか?」などと聞いた後、承知してくれました。

「宜ござんす、差し上げましょう」といいました。

「差し上げるなんて威張った口の利きける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない憐れな子です」

先生が「お嬢さんを下さい!」と言ってから15分もかかわらずに奥さんは結婚を決めてしまいました。

奥さんはお嬢さんの意見すら聞く必要がないと言います。

奥さんは、「娘は絶対承知するはずだ。私はあの子の気持ちはよく分かっている」と言います。

親類に相談したりする必要もないようでした。

奥さんはお嬢さんがお稽古事から帰ってきたら、結婚の話をすると言います。

奥さんとの話が済むと先生は気分が落ち着きません。

先生は散歩に出かけました。

途中で帰ってきた御嬢さんとすれ違い挨拶します。

歩きながら、「今頃奥さんが御嬢さんにあの話をしているところだな……とか、もう話が終わったところだな……」などと考えます。

先生は散歩中一切Kのことを思い出しませんでした。

家に戻ってきてKの姿を見て先生にKに対する罪悪感がよみがえってきました。

先生はKに謝りたくなりましたが、家の奥には奥さんもお嬢さんもいるのでそんなことはできません。

夕飯の時間になります。

娘のお婿さんが決まったためか奥さんは嬉しそうです。

その晩はお嬢さんが出てきません。

おそらく恥ずかしいのでしょう。

Kは御嬢さんがどうして出てこないのか?と奥さんに尋ねます。

奥さんが大方極りが悪いのでしょう、と言って先生の顔を見ます。

Kはなお不思議そうに、なんで極まりが悪いのか? と先生に聞きます。

奥さんは微笑みながら先生の顔を見ます。

奥さんとお嬢さんはKのお嬢さんへの恋心、そしてKと先生の間で交わされた会話など知りません。

Kも私とお嬢さんの結婚のことは知りません。

真実を知っているのは先生だけ……

今迄はKに御嬢さんをとられてしまうことが恐ろしくてならない先生でした。

しかしお嬢さんとの恋が成就してしまうと今度は別のことが恐ろしくなりました。

先生はKに自分の御嬢さんへの想いを打ち明けず、さらに恋に悩むKにあれだけのことを言ったのです。

もしKが自分とお嬢さんのことを知ったらその時はどうしたらよいのだろう!?

そしてそれは早晩、確実におこることなのです。

いつ奥さんがKに話すか?

お嬢さんの様子からKが気が付かないか? とハラハラしながら、思い悩みます。

自分からKに話すのはあまりにもきまりが悪い。

しかし奥さんからKに話してもらうとなると、奥さんがどんな風に話すかわからない。

いっそのこと奥さんにすべてのことを打ち明けて奥さんから作り話をKに話してもらおうか?

でもそれには自分がKに対して行った卑怯なことを未来の妻とその母親に知られることになってしまいます。

5,6日後奥さんが先生に「もうあのことはKさんにお話ししたのですか?」と尋ねられます。

私がいいえと答えると、奥さんは「どうして話さないのですか? 私からKさんにお話ししたらKさん随分驚いていましたよ」

先生は奥さんに「その時Kが奥さんに何か言わなかったか?」と尋ねました。

奥さんによれば、奥さんから私とお嬢さんの結婚について知ったKは……

奥さんのいうところを綜合そうごうして考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。

Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口いっただけだったそうです。

しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩もらしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。

そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。

それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。

奥さんによれば奥さんがKに話したのは二日前でした。

その間Kの先生への態度はいつもと変わりませんでした。

彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。

彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥かに立派に見えました。

「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。

私はその時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧あからめました。

しかし今更Kの前に出て、恥を掻かかせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。

しかしこのままにはしておけません。

先生はKと話そうかどうしようか? と悩みながら眠りにつきます。

そしてその晩にKは自ら命を絶ってしまったのです。

先生がKの亡骸を見つけた時、同時にKの遺書も発見しました。

この場に及んでも先生は「この手紙には自分への恨みが書き連ねてあって、それが奥さんやお嬢さんの眼に触れたらどうしよう」というエゴがありました。

先生は手紙に目を通して助かったと思いました。

手紙の内容は簡単で、抽象的でした。

自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自ら命を絶つ、というだけなのです。

それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。

世話ついでに死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。

奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜しく詫びをしてくれという句もありました。

国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。

必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。

私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。

それから間もなく、三人は先生が今も住んでいる家に引っ越しました。

奥さんもお嬢さんも私もこのようなことのあった家にいるのが嫌だったのです。

引っ越して二カ月ほどしてから先生は大学を卒業しました。

卒業して半年も経たたないうちに、先生はお嬢さんと結婚しました。

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