谷崎潤一郎『小さな王国』あらすじ 感想

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あらすじ

ベテラン小学校教師 貝島

貝島は二年前に北関東にある、G県のM市の小学校に転任した小学校教師です。

中学校に行くのも難しいような貧しい家に生まれましたが、将来学者になりたいという希望を持ち、尋常師範学校に進学し、小学校教師になりました。

いつまでも小学校の教師でいるつもりはありませんでした。

将来は日本と中国の歴史を研究して文学博士になりたい、そんな抱負を持っていました。

しかし二十代半ばで父を亡くし、結婚してからは日々の生活に甘んじ、今では二十年近いキャリアを持つベテラン教師です。

子供は六人いて、もうじき七人目が生まれそうです。

また貝島には年老いた母もいました。

貝島が教師をしている学校は土地柄か、裕福な家庭の子供が多く、みな上品なきれいな身なりをしています。

それに比べて欲しいものも満足に買ってもらえない自分の子供たちが可哀そうになるのでした。

貝島は、長年生まれ故郷の東京で教師をしていましたが、東京は物価が高く家計の状況が思わしくありません。

生活苦を逃れるために、田舎暮らしを考えます。

そんな時に妻の郷里の縁故から北関東にあるG県のM市の小学校の教師の口を紹介してもらいます。
(群馬県の前橋市ですね)

G県は生糸の生産地と名高い、人口四、五万人ぐらいの小さな都会です。

市街を取り巻く四方の郊外には見渡す限り一面の桑畑が広がっています。

貝島の新居は長年住んでいた東京の下町のむさくるしい裏長屋にくらべれば広々していました。

街も田舎の割には明るくにぎやか。

東京に比べれば自然もいっぱい。

子供達も、新しい環境でのびのび遊んでいるようで、貝島は引っ越したことを満足しています。

貝島が教師をするようになった小学校は、県庁のある町の小学校だけあります。

生徒の性格や社会階層はバラエティーに富んでいました。

お金持ちの家の子や、優秀な子もいます。

中には東京の生徒に輪をかけて狡猾な始末に負えない腕白な子もいました。

例えば貝島が受け持っている学級には、こんな子がいました。

鈴木君……土地の機業家で銀行の重役をしている鈴木某の息子。秀才。

中村君……水力電気株式会社の社長の息子。秀才。

主席はいつもこの二人の誰かです。

西村君……生薬屋の息子。腕白。ガキ大将。

有田君……医者の息子。弱虫でお坊ちゃん。身なりは一番贅沢。

町の規模が小さいだけに、東京の学校に比べればいろいろな階層の子が集まっている学級でした。

生来子供が好きで、二十年近くも小学校の教師の経験がある貝島は、いろいろな性格の少年の一人一人に関心を持ちます。

生徒には誰彼の区別なく、平等に親切に世話をやきました。

場合によれば随分厳しい体罰を与えることや、大声で叱り飛ばすこともありました。

しかし、長い間の経験で児童の心理をよく呑み込んでいるために、生徒たちにも、教員仲間や父兄の方面にも貝島の評判はよいものでした。

正直で誠実なベテラン教師というのが彼の一般的な評価です。

沼倉君

貝島がM市に来てからちょうど二年目の春のことでした。

四月の学期の変わりめから貝島の受け持っている尋常五年級へ新入生が入りました。

名前を沼倉庄吉といいます。

近頃M市の一郭に建てられた製紙工場で働きに、東京からやってきて職工の息子です。

裕福な家の子供ではないことは、顔立ちや垢じみた服装から見てもあきらかでした。

顔の四角な、色の黒い、頭ににしらくも(頭部白癬 白癬菌が髪の毛に寄生して生ずる皮膚病で、戦前はよく見られたのですが、現在は稀)がところどころにできた、憂鬱な眼つきをした、ずんぐりと肩の丸い太った少年でした。

貝島は初対面では沼倉君のことを、きっと成績のよくない行儀の悪い子供だろう、と思いました。

ところが授業が始まってみると、それほど勉強ができないわけではありません。

また性質も思いのほか温順で、むしろ無口なむっつりとした落ち着いた少年でした。

新ガキ大将、沼倉君

ある日、貝島は昼休みに運動場をぶらつきながら、生徒たちの様子を眺めていました。

というのは貝島はそれぞれの子供のことをよく知るには教室よりも、運動場における彼らの言動に注意するほうが確かだと思っているからでした。

運動場では、貝島の受け持ちの少年たちが二組に分かれて戦争ごっこをしていました。

しかしその二組の別れ方がいかにも奇妙なのです。

全部で五十人の五年生のうち、甲の組は四十人ほどで、乙の組は十人ほどという極端な組分けです。

そして甲組の大将はガキ大将の西村君で、乙組の大将が転校生の沼倉君でした。

二人とも他の子供を馬にして、その上にまたがって、味方の軍勢を指揮しています。

貝島は、沼倉君は転入してからまだ十日もたたないのに、いつの間に子供たちの間でこれほどの勢力をふるうようになったのだろう? と好奇心にかられました。

そして熱心に子供たちの戦争ごっこの行方を見守っていました。

まもなく人数の多い西村組の方が、沼倉組に負けてしまいます。

どうやら西村組の少年たちは沼倉君を非常に恐れているようです、

沼倉組の他の敵には勇敢に抵抗するのですが、一度沼倉君が馬を進めて駆けてくるやいなや、西村組の少年らは急に浮足立って、ろくに戦いもせずに逃げ出してしまうのでした。

さらに大将の西村君までもが沼倉君ににらまれると、縮みあがって、降参してしまうのでした。

合戦が終わると、今度は沼倉君が

よし、さあもう一遍戦いをしよう。今度は俺の組は七人でいいや、
と人数を減らしまた戦いをはじめます。

二回戦でも沼倉組の圧勝です。

三回戦では沼倉組はたった五人となりましでしたが、それでも西村組に勝利してしまいました。

修身の授業での事件

その日から貝島は沼倉君に特別に注意をはらうようになりました。

しかし沼倉君は教室にいる時はとくに普通の少年と変わりません。

学力も並にあるようです。

宿題も真面目にやってきます。

そして始終黙々と机によって、不機嫌そうに眉をしかめています。

教師を馬鹿にしたり、生徒たちを煽動して悪戯をしたりするようなよくある腕白ガキ大将ではありません。

ある日のことでした、修身の時間です。

貝島は他の授業ではなるべく生徒に打ち解けた優しい態度を示すのですが、修身の授業の時だけは特別に厳格にすると決めていました。

貝島が

今日は二宮尊徳先生のお話をしますから、みんな静粛にして聞かなければいけません
というと、五十人の少年たちが行儀よくならんでシーンと静まっています。

貝島が厳粛な様子で二宮尊徳の話を始めた時でした。

ひっそりとした教室の隅の方で誰かがひそひそと無駄話をしていました。

貝島はむっとしましたが、ベテラン教師だけあって、すぐに怒ったりはしません。

わざと大きな咳ばらいをして声のする方をチラリと睨みつけました。

しかし貝島がまたもとの方を向いて授業を続けると、また話声がこそこそと聞こえてきます。

声の方を振り向いて睨む、またこそこそ声が聞こえる、睨む、こそこそ声が聞こえる、を何度か繰り返しました。

貝島には声の主が沼倉君であることがわかりました。

こそこそ声は教室の右の隅の沼倉君の机のあたりから聞こえてくるのです。

もしも、その生徒が沼倉君以外、たとえば前からのガキ大将西村君だったら、貝島はすぐにその生徒を叱りつけたでしょう。

しかし貝島には何故だか、沼倉君という生徒が叱りにくいのです。

沼倉君には子供でいて子供でないような煙ったい人間のように感じられて、叱るのが気の毒のような不躾であるような気がするのです。

また沼倉君は転校してきたばかりで、まだ馴染みが薄いのも原因でした。

できれば叱らずにすませよう、そのうちには黙るだろう
と貝島が知らんぷりをしていると話声はだんだん無遠慮に大きくなります。

ついに貝島は沼倉君が口を動かす様子を目にしました。

貝島はついに沼倉君を叱りました。

誰だ!?

さっきからぺちゃぺちゃとしゃべっているのは?

誰だ?

藤の鞭でぴしッと机の板を叩き、厳しく問い詰めます。

沼倉!

お前だろうさっきからしゃべっていたのは?

え?

お前だろう!

しかし沼倉君は臆する様子もなく立ち上がって、

いいえ、僕ではありません
と言ったあと
さっきから話していたのはこの人です
と自分の隣に座っている野田君という少年を指さしました。

いいや。

先生はお前のしゃべっている所をちゃんと見ていたのです。

お前は野田と話をしていたのではない。

お前の右にいる鶴崎と二人でしゃべっていたのだ。

なぜそういう嘘をつくのですか?

貝島はいつになくむかむかと腹をたてて顔色を変えました。

というのは沼倉君は授業中におしゃべりをしただけでなく、さらに他人に罪をなすりつけようとしたからです。

しかもその罪をなすりつけようとしている野田君は、日頃から温厚な品行の正しい生徒でした。

野田君は沼倉に罪をなすりつけられた後、はっと驚いたような瞬きをしたのち、憐れみを乞うが如く、沼倉君に視線を投げかけました。

野田君はやがて何事かを決心したかのような顔をして、真っ青な顔をして立ち上がると、こう言いました。

先生、沼倉君ではありません。

僕が話をしていたのです。

貝島はこう考えました。

野田君は沼倉君から罪をなすりつけられてしかたなく罪をかぶったのだろう。

もし罪をかぶらなければ野田君は後で沼倉君にいじめられるのだろう。

そう思うと貝島は沼倉君の悪質さにますます腹がたちます。

沼倉君を充分に詰問して懲らしめなければ
と思いました。

貝島はぴしりと鞭をはたきます。

沼倉!

お前はなぜそういう嘘をつくのです!

先生は確かにお前のしゃべっている所を見たから言うのです。

自分が悪いと思ったら、正直に白状して、自分の罪をあやまりさえすれば、先生は決して深く叱言を言うのではありません。

それだのにお前は、嘘をつくばかりか、かえって自分の罪を他人になすりつけようとする。

そういう行いは何よりも一番悪い。

そういう性質を改めないと、お前は大きくなってからロクな人間にはならないぞ。

そう教師に言われても、沼倉君はまったくおびえる様子を見せません。

いつも通りの憂鬱そうな瞳で貝島を上目遣いでじろじろ睨み返しています。

その表情には多くの不良少年に見られるような、意地の悪い、肝の太い、獰猛な相が浮かんでいました。

貝島はまったく反省の色を見せない沼倉にこう命じました。

先生がいいと言うまで教壇の下に立っていなさい!

お前が自分の罪を後悔しさえすれば、いつでも赦してあげる。

しかし強情を張っていれば、日が暮れても許しはしないぞ!

すると先ほど沼倉君に罪をなすりつけられた野田君がこう言います。

(野田君)
先生、ほんとうに沼倉君ではありません。沼倉君の代わりに僕を立たせてください!

貝島が、

いや、お前を立たせる必要はない。お前には後でゆっくり言って聞かせます、
というと、今度は別の生徒が
先生、僕を立たせて下さ!
先生、沼倉君を立たせるなら僕も一緒に立たせて下さい!!
と言い出し席を立ちだします。

五、六人の生徒がどやどやと席を離れたかと思うと、それに続いてつぎからつぎへと「僕も、僕も」と立ち上がります。

ついには全級残らずの生徒が教壇の前にやってきました。

少年たちの態度には少しも教師を困らせるような悪意があるのではないらしく、自分たちが犠牲になって沼倉君を救おうとする決心があふれていました。

沼倉君の勢力

それ以来貝島はずっと沼倉君のことを一つの研究材料として考えていました。

通常小学校の尋常五年生、十一二歳の男の子というのは、親や教師の言うことも聞かずに暴れまわる年頃です。

それなのに、彼らと同い年の少年である沼倉君が、五十人もの少年たちをばっちりと統率しているのです。

その中には沼倉君が来る前のガキ大将だった西村君や、優等生の中村君や鈴木君までもが入っているのです。

貝島は長年の間、小学校の児童を扱って、随分やっかいな不良少年や強情な子供を知っています。

けれども今までに沼倉君のような少年に会ったことは一度もありませんでした。

貝島はこうも考えました。

沼倉君が全級の少年たちを従わせていることは必ずしも悪い行いではない。

問題は、沼倉君が自分の勢力を利用して、他の生徒たちに悪い影響を与えるかもしれないことでした。

ところで貝島の受け持ちの級には貝島の長男の啓太郎が生徒として在籍していました。

貝島は啓太郎に子供たちの事情を聴いてみることにしました。

(啓太郎)
お父さん。

沼倉君は悪い子じゃないよ。

(貝島)
ほんとうにそうかね?

でもこの前の修身の時間に沼倉は自分の罪を野田になすりつけたじゃないか?

(啓太郎)
あれはたしかに悪いことかもしれない。

でも沼倉君は野田君を陥れようとしてあんなことをしたわけじゃないんだよ。

沼倉君は学級のみんなの沼倉君への忠誠心を試すためにあんなことをしたんだ。

あの後、沼倉君はすっかり学級のみんなの忠誠心に満足したんだよ。

特に罪をかぶった野田君。

第一に沼倉君と一緒に教壇の前で立とうとした西村君、中村君、鈴木君は一番の忠義者として沼倉君から表彰されたんだよ。

啓太郎の子供らしい言葉から推察すると、沼倉君は勇気と寛大と義侠心に富んだ少年です。

沼倉君はその立派な性質のために転入して短期間で学級の覇者となったようでした。

腕力からいえば元ガキ大将の西村君の方が上です。

けれども沼倉君は西村君のような弱い者いじめをしないので、二人が喧嘩をすると他の少年たちは沼倉君に味方するそうです。

また西村君はガキ大将でしたが、優等生の中村君や鈴木君はとくに西村君に従うということはありませんでした。

しかしその中村君や鈴木君も、沼倉君の忠実な部下になって、ひたすら沼倉君に憎まれないようにおべっかを使ったりご機嫌をとったりしているというのです。

沼倉君は「おれは太閤秀吉になるんだ」と言っているとか……

沼倉君は自分の子分の少年たちに弱い者いじめをする者がいれば、厳格な制裁を加える。

だから弱虫お坊ちゃんの有田君は、沼倉君の天下になったことを誰よりも一番ありがたがっている。

以上の話を啓太郎から詳しく聞いた貝島は、一層沼倉君に対して興味を抱かずにはいられませんでした。

そしてこう思います。

沼倉君は不良少年ではない。

餓鬼大将としても頗る殊勝な、嘉すべき餓鬼大将である。

貧しい職工の息子ではあるけれど、こういう少年が将来本当の英傑となるのかもしれない。

同級生を自分の家来みたいにして威張り散らすということはよくないかもしれない。

けれど、生徒たちが喜んでそれに従っているというのなら、そこまで悪いことではない。

それにおそらく大人が干渉しても効果はないだろう。

それよりもむしろ沼倉君の正義を重んじ、任侠を尊ぶ気概を称賛しよう。

そして彼の勢力をよい方へ利用して、級全体の為になるように導いてやろう。

貝島、沼倉君を利用する。しかしちょっとうまくいきすぎて怖い

貝島はある日授業が終わってから、沼倉君を呼んでこう言いました。

先生がお前を呼んだのは、お前を叱るためではない。

先生はおまえに感心しているんだよ。

お前はには大人も及ばない、えらい所がある。

全級の生徒に自分のいいつけをよく守らせるということは先生にだって容易にできないことだ。

それなのにお前はそれをちゃんとやってみせている。

先生などはかえって恥ずかしい次第だ。

そこで先生は、お前がこれからもますます今のような心がけで、生徒のうちに悪い行いをするものがいれば懲らしめてやってほしい。

よい行いをする者には加勢をしてやってほしい。

全級が一致してみんな立派な人間になるように、みんなお行儀がよくなるように導いて貰いたい。

沼倉くんはにこにこしながら

先生わかりました。きっと先生のおっしゃる通りにいたします。
と言いました。

あくる日の朝、貝島が学校にいくと、教室は気味の悪いほど静まっていました。

誰一人騒いだりする生徒はいません。

あまりにも不思議なので、貝島はそれとなく沼倉君の様子をうかがいます。

沼倉君は懐から小さな閻魔帳を出して、ずっと室内を見まわしながら、ちょっとでも姿勢を崩している生徒をみつければ、閻魔帳にばってんを書き加えます。

日数を経るにしがって、規律は厳重に守られていきます。

この頃では学校中で尋常五年生は学校中で一番大人しい、学校中のお手本だ、と言われるようになりました。

校長先生にまで褒められるようになってしまいました。

啓太郎の涙

ところで貝島のプライベートは近頃うまくいきません。

まず七人目の子を産んでから、急に体が弱くなった妻が肺結核の診断を受けてしまったのです。

また貝島の母も最近は持病の喘息の症状が悪くなってきたのでした。

東京よりは、物価の低いM市に引っ越してきたものの、妻と母の治療代で出費が多くなってきました。

妻が病気で赤ん坊にお乳をやれないので、赤ん坊のミルク代もばかになりません。

貝島家の暮らし向きがどんどん苦しくなります。

貝島は毎月月末が近くなると一週間も前から気を使いふさぎ込むようになりました。

物価高の東京を避けて、M市にやってきたというのに、今では貧乏なことは東京にいた頃と大差なくなってしまいました。

それでも若い頃は、

今は貧乏でもそのうち月給が上がるだろう、
という希望があったのですが、今では前途に少しの光明もありません。

そんなむしゃくしゃしたある日、家に戻ってきた貝島は長男の啓太郎が妻と母に叱られている様子を見ました。

妻と母に理由を聞くと、啓太郎が最近盗みをはたらいている疑いがあり、それを問い詰めているところだと言います。

家が貧しいため、ほとんど小遣いをやっていないというのに、啓太郎は最近おやつだとか、色鉛筆だと、高価そうな扇子だとかを持っているのです。

わけを聞くとこれは学校の友だちにもらったのだと言うけれど、どうも信じられません。

そこで具体的に誰にもらったと聞いても啓太郎はうつむいているばかりで答えません。

そこで厳しく問い詰めた結果、啓太郎はもらったのではなくて買ったのだと言います。

しかし啓太郎にはそんなものを買う小遣いなどやっていないのです。

盗んだのではない者が、どうしてお金なんぞ持っているのだ。さあそれを言え! 言わないかったら!
と激高する母に対してさすが貝島はベテラン教師。

やさしく啓太郎にわけを聞きました。

(貝島)
啓太郎や、お前はなぜ正直に本当の事を言わない?

盗んだのなら盗んだのだと、まっすぐに白状しなさい。

……お父さんは、お前にもよその子供と同じように好きな物を買ってやりたいのだが、この通りうちには大勢の病人がいるのだから、なかなかお前のことまでも面倒をみている暇がない。

そこはお前もつらいだろうけれど、我慢をしてくれなければ困る。

お父さんはお前がまさか、人の物を盗むような悪い子だとは思いたくないのだが、人間には出来心ということもあるから、もともとそんな料簡ではないにしろ、何かの弾みでさもしい根性を起こさないとも限らない。

もしそうだったら今度一度だけは堪忍してあげるから、正直なことを言いなさい。

そうしてこれから、二度と再びそういう真似はいたしませんと、よくおばあさんにお詫びをしなさい。

よう啓太郎!

なぜ黙っている。

しかし啓太郎は

……だってお父さん、……だって僕は、人のお金なんか盗んだんじゃないっんだってば……
としくしく泣き始めました。

(貝島)
しかし、それじゃあ、そのお菓子だの、色鉛筆だの、扇子だのはいったいどうしたんだい……?
(啓太郎)
……お金といったってほんとうのお金じゃないんだよう。

にせのお札なんだってば、……

そう言って啓太郎が懐から紙切れを出しました。

それは小さな紙に「百円」とか「五十円」とか「一千円」等書いてある、おもちゃのお金でした。

そしてこのおもちゃの紙幣の裏の角のところには、「沼倉」という認印が押してあります。

小さな王国 子供たちの貨幣制度

啓太郎の話によれば、今尋常五年生の級では沼倉君を大統領にして政府ごっこのようなことをやっているというのです。

沼倉君は同級生の名簿を作って、毎日生徒たちの言動を観察しては彼が決めた評価方法で評価していました。

出席、欠席、遅刻、早退、そういったものをすべて帳面に書き留めます。

さらに欠席者には欠席の理由を届けさせて、さらに秘密探偵を放って果たしてその理由が本当かどうか調べさせました。

道草をくって授業に遅れたり、仮病を使って休んだりすればすぐにばれて、制裁をうけてしまいます。

貝島が思い返してみれば、たしかに最近生徒の、遅刻や欠席が減ったのでした。

さて、ずるをして休んだり、欠席したりすれば沼倉君から罰をうけるのですが、罰則の種類がだんだん増えてくるにしたがって、制裁の方法も複雑になり、探偵の人数も増すようになりました。

しだいには探偵以外にいろいろの役人が任命されました。

沼倉君を大統領として、監督官、出席簿係、運動場係、遊戯係。

裁判官、裁判官の副官、高官の用を足す従卒、大統領の顧問官。

生徒の一人は大蔵大臣で、沼倉政府のお札を刷ります。

すべての生徒は何らかの役職を持っていてその役職に合わせて、このおもちゃのお札で俸給をもらっています。

大統領の沼倉君の月報が五百万円、副統領が二百万円、大臣が百万円、従卒が一万円。

生徒たちは毎日授業が終わると、公園の原っぱの上や、郊外の草むらの中等で市を開きます。

沼倉君が作った法律では、両親から小遣いをもらった生徒はすべてその金を物品に変えて市場に運ばなければなりません。

またやむを得ない日用品を買う他には、沼倉大統領が発行した紙幣以外の金銭を使用してはいけないという法律もありました。

啓太郎は先生の息子だからというので、沼倉君から特別の庇護を受けていたために、お札には不自由しません。

啓太郎はこの子供たちの間で流通しているお金を使って、色えんぴつやお菓子を買っていたのです。

ところで、この貨幣制度については子供たちは決して大人には言ってはいけない決まりになっているといいます。

また、お札を先生の前では出してはならない、先生に知られないようにお互いに注意しよう、ということになっているそうです。

また、もしこの貨幣制度について先生に言いつけるものがあれば厳罰に処する、ということになっているらしい。

そこで啓太郎は母や祖母に聞かれても決して答えなかったわけです。

貝島が啓太郎から聞き出すのも一苦労だったのも、そのためでした。

啓太郎が

僕は先生の子供だから一番、疑われやすいんだ。
みんな僕を疑っていて、今も秘密警察が家の様子を聞いているかもしれないんだよ
とわあっと泣き出してしまいました。

貝島はこれを聞いて驚き、さすがにこれはやめさせなければ、と思いました。

しかしいったいどこから手をつけたらよいかわかりません。

生活苦のあまり頭がおかしくなった貝島はついに……

さて貝島の暮らしはますます下向きになりました。

十一月の末のある日曜日の午後でした。

二三日前から熱が続いてげっそりとしている妻の床の中で、赤ん坊が泣いています。

そんなとき、貝島と妻はまだ二三日はあるはずだと思っていた赤ん坊のミルクが、もう一滴もないことに気が付きました。

明後日の貝島の月給日が来るまでは、どこをたずねても家の中に一文の銭もありません。

長女の初子が砂糖水を作ったり、おじやを煮たりして赤ん坊にやりますが、赤ん坊は一切受け付けてくれません。

(貝島)
そうだ。

勘定がたまっているからといって、そんなに遠慮することはない。

あの家の息子は僕のうけもちなんだ。

今度一緒にと言えば、次でいいですよ、と言ってくれるはずだ。

貝島はそう言って彼が受け持ちをしている生徒の家の、洋酒店まで行きました。

そこでミルクの缶を見つけましたが、プライドが邪魔をしたのか、結局買わずに戻ってきてしまいます。

家の近所まで戻ってくると赤ん坊のぎゃあぎゃあという泣き声が聞こえます。

絶望のあまり思考停止してしまったのでしょうか?

貝島は町をふらふらと歩きだしました。

あてどもなくふらふら歩いていると、公園の土手の陰のところには貝島の受け持ちの五、六人の少年たちがうずくまっています。

何をして遊んでいるのでしょうか?

こそこそと囁きあっています。

(少年A)
いやだよ。
いやだよ。
内藤君。
君やはずるいからいやだよ。
もう三本しかないんだから。
一本百円なら売ってやらあ。
(少年B)
高いなあ!

少年A
高いもんかい。
ねえ沼倉さん。
(沼倉君)
うん。
内藤の方がよっぽどずるいや。
売りたくないって言っているのに、無理して買おうとしやがって、値切るやつがあるもんか。
買うなら値切らずに買ってやれよ

例の少年たちの間で流通しているお金で何か売り買いの相談をしているのでしょうか?

(貝島)
君たち何をしているんだい?

貝島が近づいていくと逃げようとする生徒たち。

貝島は優しく話しかけます。

どうだね、沼倉。

一つ先生も仲間へ入れてくれないかね。

お前たちの市場ではどんな物を売っているんだい?

先生もお札を分けてもらって一緒に遊ぼうじゃないか。

その時の貝島の表情はにやにやと笑ってはいましたが、眼は血走っていました。

貝島はこう続けます。

さあ一緒に遊ぼうじゃないか。

お前たちは何も遠慮するには及ばないよ。

先生は今日から沼倉さんの家来になるんだ。

みんなと同じように沼倉さんの手下になったんだ。

ね、だからもう遠慮しなくていいさ。

沼倉君はぎょっとして二三歩たじたじと下がりました。

しかしすぐに思い返してまるで部下の少年に対するような傲然たるガキ大将の威厳をたもちつつ

先生、ほんとうですか? それじゃ先生にも財産を分けてあげましょう。さあ百万円。
とおもちゃのお金を貝島に渡します。

(少年A)
やあ面白いな。

先生も仲間にはいるんだとさ。

先生はなにがお入り用ですか?

ほしいものは何でもお売りします。

(貝島)
先生はミルクが一缶欲しいんだが、お前たちの市場で売っているかな?
(少年B)
ミルクですか?

ミルクなら僕の家の店にあるから、明日市場へ持ってきてあげましょう。

先生だから一缶千円にまけてあげます

貝島は少年たちと別れると、少年Bの家である、洋酒店の中に入りミルクを手に取りました。

店員に向かって

ええと代価はたしか千円でしたな。それじゃここへ置きますから
と袂からさっき沼倉君からもらったおもちゃの千円札を出した途端はっとしました。

あっ!
大変だ!
俺は気が違ったんだ。
でもまあ早く気が付いてよかったが、とんでもないことをいってしまった。
基地外だとおもわれちゃ厄介だから何とか一つごまかしてやろう

顔を真っ赤にしてそう考え貝島は大声でからからと笑って店員にこう言いました。

いや。

これを札と言ったのは冗談ですがね。

でもまあ念のために受け取っておいて下さい。

いずれ三十日になれば、この書付と引き換えに現金で千円支払いますから

感想

貧乏教師と地方都市の平凡な小学生男子が主人公。

美女も恋愛も耽美も出てこない谷崎潤一郎らしくない雰囲気の小説です。

ただこの沼倉君という、耽美とは無縁そうな少年は、他の谷崎の作品の女王様と同じ性格を持っています。

それは「支配する人であること」「周囲の人を自分の奴隷、召使いにしてしまう」ということ。

ただ他の小説の主人公は美貌や気品、色香によって周りの人を恋愛的な感情で支配しているのに、沼倉君はそんなものとは一切無縁な少年です。

『小さな王国』は谷崎作品にしては少し毛色の変わった小説ですね。

まだまだ無邪気な、小学校五年生たち。

五十人の少年たちの世界でこういう支配、被支配関係ができてしまうこの小説は、心理学的、文化人類学的な観点から読んでも面白いでしょう。

五十人の少年たちの世界に、沼倉君というカリスマ的なリーダーがやって来たことで、小さな政府のようなものができます。

更に彼ら独自の貨幣までできてしまう現象は、国家の起源とは何か?、通貨とは何か?ということを考えるヒントにもなりそうです。

また幼い支配者、沼倉君からはカリスマ的リーダーとは何か?、と考えさせられます。

またこの小説からは当時(大正七年)の教育観を知ることもできます。

体罰も肯定されていて、現代よりもずっと厳格ではあります。

けれども、厳しくすることで無理やり児童を従わせるのがよい、と考えられていたわけではないようです。

さて沼倉君はこの後どうなったでしょうか?

青年、中年になってもリーダーシップを発揮し続けたのか……

それとも成長の過程のどこかでそれをくじかれ、平凡な人間になったのか……

もしリーダーシップを発揮し続けた結果、彼はどの程度まで出世できたのか……

出世した結果、それは社会にとって有益な人となったかもしれません。

あるいは、犯罪組織のリーダーなど、かえって世に害をなす人になったかもしれません。

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