谷崎潤一郎の妻たち

谷崎潤一郎の女性遍歴

最初の妻石川千代と妹のせい子

29歳で、谷崎は石川千代と結婚。

大正6年、31歳のときに千代の妹のせい子とも同居を始めます。

彼女はナオミのモデルで女優志望。

ハーフっぽい美少女で谷崎と恋愛関係になりました。

映画会社の脚本部顧問になった谷崎はせい子をそのコネで、女優にしてやりました。

細君譲渡事件

せい子と恋愛関係にあった、谷崎は妻の千代と別れたいと思っていました。

そこで親友の佐藤春夫に千代を譲る約束をします。

しかし土壇場で、谷崎が約束を取り消したため、佐藤はこれに怒り谷崎に絶交を告げます。

それから10年後、昭和5年に谷崎は正式に千代と離婚し、妻を譲渡する事を佐藤春夫との連盟で発表します。

これは文壇で有名なスキャンダルとなりました。

谷崎は昭和6年に女性記者、古川丁未子と結婚。

しかし谷崎はまもなく、丁未子と結婚する3年前には知り合っていた根津松子と不倫をはじめ、昭和9年には離婚をします。

『細雪』幸子のモデル 根津松子

根津松子は大阪の造船所の娘で、細雪の幸子のモデルとなった女性。

谷崎と知り合った時点で松子は人妻でした。

もともと松子は芥川龍之介のファンでした。

松子が芥川に会いに行ったときに谷崎が一緒にいたのがなれそめです。

その後谷崎と親密になり、谷崎が丁未子と離婚した翌年の昭和10年に谷崎と結婚しました。

若い頃の奥さんにはあまりにも飽きるのが早い谷崎ですが、松子と結婚したのちは、さすがの谷崎も落ち着いたようです。

松子は谷崎の最後の妻となりました。

松子は『細雪』の幸子のモデルと言われています。

関西への移住

大正12年に関東大震災が発生した際、谷崎の横浜の自宅は全焼してしまいます。

その後谷崎は関西へ移住しました。

関西移住後谷崎は関西が舞台の作品を書き続けます。

後期に特に有名作が多いので、谷崎と言えば関西好きの作家、と思われている傾向がありますね。

東京の下町生まれという作家として得難い材料を持っていた、谷崎がなぜ関西びいきになってしまったのか……

と思いますが、それは大正後期以降の東京が、谷崎の子供時代の東京とは変わってしまったからだといいます。

明治、大正、と時代が進むにつれて近代国家の首都としての宿命なのか、東京のまちはかつて風情を失っていきました。

そして、それは関東大震災でもう後戻りのできないものとなってしまったのでした。

谷崎は関西の町にかえって自分の子供時代の東京の雰囲気を見出し、関西を愛するようになったのでした。

注)谷崎は昭和25年64歳の時に谷崎は京都から熱海に転居しました。(熱海は温かいため)

谷崎潤一郎の最後

昭和26年頃から谷崎は体調を崩すようになります。

昭和34年右手に疼痛や麻痺が起こり以降は口述筆記となりました。

それでも『癇癪老人日記』『台所太平記』といった長編を書いています。

昭和40年に腎不全に心不全を併発して79歳で死去

ほとばしるような若い才能で颯爽と文壇に現れ、その後も安定して名作を生み続けた、谷崎潤一郎。

そして79歳とそれなりに長生きして、晩年まで執筆をつづけているので、紹介すべき作品が沢山あります。