谷崎潤一郎『途上』ネタバレ 感想

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あらすじ ネタバレ

探偵との出会い

舞台は大正時代の東京。

十二月も押し詰まったある日の夕暮れのことでした。

エリートサラリーマン湯河勝太郎は金杉橋の電車通りを新橋の方へぶらぶら散歩していました。

「もし、もし、失礼ですがあなたは湯河さんじゃございませんか」

そんなふうに彼に後ろから声をかけるものがいました。

湯河が振り向くと、そこには面識のない立派な風采の紳士が立っていました。

いや、突然こんな所でお呼び止めして失礼だとは存じましたが、わたくしは実はこう云う者で、あなたの友人の渡辺法学士―――あの方の紹介状を戴いて、たった今会社の方へお尋ねしたところでした

紳士がそう言いながら二枚の名刺を差し出しました。

一枚目は湯河の友人、渡辺の名刺です。

渡辺の名刺にはこう書かれていました。

友人安藤一郎氏を御紹介する右は小生しょうせいの同県人にて小生とは年来親しくしている人なり君の会社に勤めつつある某社員の身元に就ついて調べたい事項があるそうだから御面会の上宜敷よろしく御取計いを乞う

もう一枚の名刺にはこの突然現れた男のものでした。

私立探偵安藤一郎 事務所 日本橋区蠣殻かきがら町三丁目四番地 電話浪花なにわ五〇一〇番

私立探偵の安藤に「ちょっと今お話ししてもよろしいでしょうか?」と尋ねられて湯河はイライラします。

湯河は今日月給とボーナスをもらったばかりでした。

今から銀座に行って、奥さんに毛皮の手袋とショールを買おう。

そして早く家に帰ってプレゼントして彼女を喜ばせたい。

そう思っていたところだったのです。

しかし探偵に

どうでしょう、お手間は取らせない積りですが少し付き合って戴けますまいか。

私の方は、或る個人の身元に就いて立ち入ったことをお伺いしたいのですから、却って会社でお目に懸るよりも往来の方が都合がいいのです

と言われて湯河はしぶしぶ承知します。

というのは今断って明日、探偵が家にやってきたらかえって迷惑だと思ったのでした。

湯河は当初こう考えました。

探偵は湯河の会社の誰かを結婚にあたっての調査で調べたいと思って、湯河のところに来たのだろう。

しかし探偵はこう言います。

「調べたいのはあなた本人なのです」

湯河は答えます。

「でも僕はもう結婚していますよ」

探偵は「でもまだ法律上の結婚の手続きは済ませていらっしゃらないでしょう」と言います。

湯河は

ああそうですか、分りました。

するとあなたは僕の家内の実家の方から、身元調べを頼まれた訳なんですね

探偵は

誰に頼まれたかと云うことは、私の職責上申し上げにくいのです。

あなたにも大凡(おおよそ)お心当りがおありでしょうから、どうかその点は見逃して戴きとうございます

湯河は
「ええよござんすとも、そんなことはちっとも構いません」と納得します。

湯河は妻となかなか法的な結婚手続きができなくて悩んでいました。

妻の実家は妻と湯河の結婚を反対しているのです。

当時、女性が本人の意思のみで結婚できるのは二十五歳からでした。

湯河の内縁の妻はまだ二十一、二歳だったため、妻の実家を説得しないと後三四年の間は法的な夫婦になれないのでした。

探偵は湯河に、自分に話してくれれば、正式な結婚を早めることができるかのように、ほのめかします。

湯河は探偵に協力することにしました。

湯河の前妻

探偵が持ち出したのは湯河の前妻のことでした。

湯河さん、あなたは、大学卒業すぐに就職なさり、また前の奥さんとご結婚されましたね。

前の奥さんは五年半の結婚生活ののちチブスであの世に旅立たれましたね。

そして彼女は大変病弱な方で、たびたび病気にかかりましたね

湯河は

この男、俺のことをよく調べている!
と思います。

「よくごぞんじですなあ!」と湯河が驚くと、探偵はこう言います。

あはははは、そうおっしゃられると恐縮です。

何分これで飯を食っているんですから

探偵は湯河の前妻の湯河と結婚してから、あの世の人となるまでの、五年半の病歴をすらすらと細かい所まで語って見せました。

あの方はチブスをおやりになる前に一度パラチブスをおやりになりましたね、………

こうッと、それはたしか大正六年の秋、十月頃でした。

かなり重いパラチブスで、なかなか熱が下らなかったので、あなたが非常に御心配なすったと云うことを聞いております。

それからその明くる年、大正七年になって、正月に風を引いて五、六日寝ていらしったことがあるでしょう

その次には又、七月に一度と、八月に二度と、夏のうちは誰にでもありがちな腹下しをなさいましたな。

この三度の腹下しのうちで、二度は極ごく軽微なものでしたからお休みになるほどではなかったようですが、一度は少し重くって一日二日伏せっていらしった。

すると、今度は秋になって例の流行性感冒がはやり出して来て、筆子さんはそれに二度もお罹かかりになった。

即すなわち十月に一遍いっぺん軽いのをやって、二度目は明くる年の大正八年の正月のことでしたろう。

その時は肺炎を併発して危篤な御容態だったと聞いております。

その肺炎がやっとのことで全快すると、二た月も立ないうちにチブスでお亡くなりになったのです。

また探偵は病気のことだけでなく、湯河の妻に起こった事件についてもよく知っていました。

その事件とはガスストーブによる窒息事件と、乗合自動車に乗っているときの衝突事件です。

あれはこうッと、奥さんの肺炎がすっかりよくなって、二、三日うちに床上とこあげをなさろうと云う時分、―――病室の瓦斯ストーブから間違いが起こったのだから何でも寒い時分ですな、二月の末のことでしたろうかな、瓦斯の栓が弛ゆるんでいたので、夜中に奥さんがもう少しで窒息なさろうとしたのは。

しかし好い塩梅に大事に至らなかったものの、あのために奥さんの床上げが二、三日延びたことは事実ですな。

―――そうです、そうです、それからまだこんなこともあったじゃありませんか、奥さんが乗合自動車で新橋から須田町へおいでになる途中で、その自動車が電車と衝突して、すんでのことで………

湯河が「な……なんであなたはそんなことまで知っているんですか!」と驚くと、探偵はこう言います。

いや、別に必要があった訳じゃないんですがね、僕はどうも探偵癖があり過ぎるもんだから、つい余計なことまで調べ上げて人を驚かしてみたくなるんですよ。

自分でも悪い癖だと思っていますが、なかなか止められないんです

探偵は続けます。

(探偵)
あの衝突事故は湯河さんにも多少責任があるんですよ。

だって湯河さんが「電車へ乗るな、乗合自動車で行け」と奥さんにおっしゃったのでしょう?

(湯河)
ええ、しかしこういうわけだったんです。

何しろ前妻は二度も流行性感冒をやった後でしょう。

その時分、人ごみの電車に乗るのはもっとも感冒に感染しやすいと新聞に出ていたのです。

(探偵)
しかし、あの時分は乗合自動車が始まったばかりで、衝突事故はしばしばあったのです。

しかも奥様は一日おきに病院に通ってらしたのですから、事故にあう可能性はかなり高かったはずですよ。

(湯河)
あの当時僕はこう考えたのです。

電車で流行性感冒にかかる危険性と、乗合自動車で衝突事故を起こす危険性とを比較したら、電車で流行性感冒にかかる危険性が高いと。

(探偵)
なるほどあなたの言うことは理屈にあっている。

しかし僕はこんなことも知っています。

あなたの奥さんは衝突事故が起きた時、乗合自動車の一番前の席にいたそうですね。

あなたのいいつけで……

衝突が起きた時一番多く被害を受けるのは先頭の乗客なのは明らかなのに……

(湯河)
それは乗合自動車でも多少は感冒への感染の危険性があると思ったからです。

感染を防ぐには、なるべく風上にいるほうがいいから……

(探偵)
乗合自動車でも感冒への感染の危険があったのですか?

それなら、わざわざ電車を避けて衝突の危険性が高い乗合自動車に乗る意味はなかったでしょう?

あなたは奥様を故意に危険な場所においたのですね。

それに奥様はあのとき流行性感冒から治ったばかりなのですから免疫があるはずです。

電車に乗っても感染の危険はなかったはずじゃないですか?

探偵は次に湯河が心臓の悪い前妻に飲酒の習慣をつけさせようとしたことを指摘します。

探偵は湯河が前妻に喫煙の習慣をつけさせたことも指摘します。

しかし彼女はもともと酒を嗜たしなむ傾向のない女だったので、夫が望むほどの酒飲みにはなれませんでした。

そこで夫は、第二の手段として煙草をすすめました。

『女だってそのくらいな楽しみがなけりゃ仕様がない』そう云って、舶来のいい香においのする煙草を買って来ては彼女に吸わせました。

次に探偵は、湯河が心臓の悪い人には有害な冷水浴を妻にやらせたことを指摘します。

次に夫は、心臓の弱い者には冷水浴が有害であることを聞き込んで来て、それを彼女にやらせました。

『お前は風を引ひき易い体質だから、毎朝怠らず冷水浴をやるがいい』と、その男は親切らしく妻に云ったのです。

湯河のたくらみ

そう! 湯河は故意に前妻を命の危険にさらさせたのです。

湯河はまず上記のような手段をとって、前妻の心臓を悪くしておきました。

そして今度は前妻の弱った心臓に打撃を与えるために、次のような手段に出ました。

湯河は妻をチブス、肺炎のようななるべく高い熱の続くような病気にかかりやすい状態に置きます。

湯河は妻にチブス菌のいそうなものを食べさせます。

亜米利加(アメリカ)人は食事の時に生水を飲む、水をベスト・ドリンクだと云って賞美する』

と言って生水を飲ませました。

生の牡蠣とトコロテンも頻繁に食べさせました。

前妻は、湯河を心から愛し信頼していました。

湯河が親切心から言っているのだということを疑わず、夫の言いなりです。

そしてその結果、前妻はパラチブスにかかり一週間も高い熱に苦しめられました。

しかしパラチブスの死亡率は一割内にすぎませんから、幸か不幸か妻は助かりました。

その後も湯河は妻にせっせと生ものを食べさせました。

しかし妻といえば、夏になるとしばしば下痢をおこすだけで、なかなかチブスにはかかりません。

そんな時、一昨年の秋から翌年の春にかけて流行性感冒がはやりました。

湯河は妻を流行性感冒にに感染させようとたくらみます。

湯河は「感冒予防のうがい薬」と言ってわざと有毒なうがい薬を作って、妻に使わせました。

妻は喉を悪くします。

ちょうどその時、親戚の伯母が流行性感冒に罹りました。

湯河は妻を再三そこへ見舞いにやりました。

妻が五回目に見舞いに行った後、帰ってきてすぐに熱を出します。

しかし、その時、妻は助かりました。

それから正月になりました。

湯河の実家の子供が激烈な感冒にかかります。

夫は妻をその子供の付添人にしました。

その時夫はこう言いました。

今度の風は移り易いからめったな者を付き添わせることはできない。

私の家内はこの間感冒をやったばかりで免疫になっているから、付添人には最も適当だ

しかし妻はまもなく重い感冒に罹って肺炎を起こして、一度は命を失いかけました。

しかし妻は生還します。

湯河は次にガスストーブを使って妻を窒息させようとします。

湯河は妻が毎晩夜中に一度便所に行く習慣があること、またその時は長い寝門着の裾を引きずって歩き、その裾が必ずガスの栓に触ることを知っていました。

そこで湯河は妻が昼寝をしている最中に、こっそりとガスの栓へ油をさして、そこを滑らかにしておきました。

その晩緩くなったガス栓を妻の寝門着の裾が払いました。

ガスが漏れて部屋にガスが充満します。

夫のたくらみは七分通り成功しましたが、妻が危うい所で目を覚まして大事には至りませんでした。

湯河は次に妻を衝突の危険性が高い乗合自動車の先頭に乗せて何度も病院に通わせました。

しかし妻を交通事故に合わせて、命を奪うたくらみは、不成功に終わりました。

今度は医者が妻に転地療養をすすめたので、湯河はそれを利用することにしました。

医者は一月ほどでいいと言ったのですが、湯河は妻にこう進めます。

お前は始終患わずらってばかりいるのだから、一と月や二た月転地するよりもいっそ家中でもっと空気のいい処へ引越すことにしよう。

そうかと云って、あまり遠くへ越す訳にもいかないから、大森辺へ家を持ったらどうだろう。

彼処あすこなら海も近いし、己おれが会社へ通うのにも都合がいいから

妻はすぐに賛成しました。

実は当時大森は非常に飲み水の悪い土地でした。

そしてそのためか当時の大森は伝染病、とくにチブスの絶えない場所でした。

大森に引っ越してからは、湯河は今迄よりもさらに一生懸命に妻に生水や生物を食べさせました。

湯河はさらに庭に樹木を沢山植え込んだり、池を掘ったりします。

また便所の位置がよくないと言って、便所を西日が当たるような方角に向き変えます。

それは家の中に蚊と蠅を発生させるためでした。

そして自分の痴人にチブス患者ができると、しばしば妻を見舞いにいかせませす。

自分も行くのですが、湯河は以前チブスにかかっていて免疫があるのでした。

そうしているうちに、効果がでてきて、大森に引っ越してひと月後に前妻はチブスにかかります。

妻はチブスが原因でとうとうあの世の人となりました。

湯河がこんなことをしたのは、今の内縁の妻と結婚するために邪魔ものを消すためでした。

湯河は二、三年前から(つまり前妻の存命中から)、今の内縁の妻と愛人関係だったのです。

探偵はこんななぞ解きをしながら湯河を自分の探偵事務所に連れて行きます。

探偵はこういって湯河をドアのなかに放り込みます。

あはははは、もういけませんよ。

もうお隠しなすってもいけませんよ。

あなたはさっきから顫ふるえていらっしゃるじゃありませんか。

先の奥様のお父様が今夜僕の家であなたを待っているんです。

まあそんなに怯おびえないでも大丈夫ですよ。

ちょっと此処ここへお這入はいんなさい

感想 なぞ解き

さて、なぜ湯河の悪事がばれてしまったのでしょうか?

それは前妻を窒息させようとしたとき、ガス栓に油を注いでいるところを、女中さんに目撃されてしまったようなのです。

―――見たのはその時分彼の家に使われていた女中でした。

この女中は、細君が嫁に来た時に細君の里から付いて来た者で、非常に細君思いの、気転の利く女だったのです。

まあそんなことはどうでもよござんすがね、―――

探偵が前妻の病気についてこんな細かいことをよく知っているのは、おそらくこの女中さんに聞いたのでしょうね。

さて、この後湯河はどうなるでしょう?

前妻のお父さんにこっぴどく絞られるのは自明のことですが、私は湯河を犯罪者として逮捕するのは難しいのではないかと思います。

あくまでも確立を重ねて、妻をこの世から消し去ったわけですからね。

ただ当時は、一般人が起こした犯罪にいたらないような事件も、新聞に載る時代です。

湯河の悪事を新聞に掲載すれば、彼に社会的な制裁を与えることができるでしょう。

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