谷崎潤一郎『富美子の足』ネタバレ

富美子の肖像画を描くことに

さて塚越老人が急に油絵の話を持ち出したのは、画学生に富美子の肖像画を画いてほしいからでした。

うまいまずいは分からないが、油絵の方が何となく日本画よりは本当らしく見えるからね。」

塚越老人はこう言って、できるだけ富美子の姿を生き写しにしてくれと画学生に頼みます。

画学生は自分に塚越老人が満足するような富美子の肖像画が書けるかどうか自信がありませんでした。

けれども、これをきっかけに富美子と懇意になれたら、という思いが先に立って引き受けてしまいました。

ちなみに画学生には富美子とどうにかなってやろうというような野心はありません。

綺麗な富美子さんと今よりちょっとでも仲良くなれたらなあ!

という淡い恋心です。

それ以来、画学生は週に二回ぐらい塚越老人の家に通って、富美子の肖像画にとりかかります。

当初画学生は一般的な半身像の肖像画を画くつもりでした。

しかし塚越老人が画学生に厄介な注文をだすのです。

(塚越老人)
どうだろう、宇之さんや。

ただこう座った形を画いたって面白くもないから、一つこんな具合に、この絵の中にあるような形をさせて、こういう風にした所を画いてお貰い申す訳にゃあ行きますまいか。

塚越老人は古ぼけた草双紙を出してきて、その中に押絵の一つを画学生に見せました。

国貞の絵で若い女性がこんなポーズをとっています。

若い女が、

遠い田舎路を跣足で歩いて来て、

今しもとある古寺のような空家へ辿り着いたところが画いてあるのでした。

女はその空家へ上り込もうとして、

縁側に腰をかけながら、

泥で汚れた右の素足を手拭で拭いているのです。

上半身をぐっと左の方へ傾げ、

ほとんど倒れかかりそうに斜めになった胴体をか細い一本の腕にささえて、

縁側から垂れた左の足の爪先で微かに地面を蹈みながら、

右の脚をくの字に折り曲げつつ右の手でその足の裏を拭いている姿勢、

──その姿勢は、

昔の優れた浮世絵師が、

女の滑かな肢体の変化にどれほど鋭敏な観察を遂げ、

どれ程深甚な興味を抱いていたかという事を証明するに足るだけの、

驚くべき巧妙さを以て描かれているのでした。

僕が最も感心したのは、

女がその柔軟な、

なよなよとした手足を多種多様に捻じ曲げているにもかかわらず、

ただ徒らに捻じ曲げているのみではなくて極めてデリケエトな力の釣合が、

全身に細やかに行き渡っている事でした。

女は縁側に腰を掛けてはいるけれども、

決して安定な姿勢で腰かけているのではありません。

今もいったように上半身を左方へ傾け、

右の足を外へ折り曲げているのですから、

縁に衝いている左の腕をちょいと引張れば、

すぐに平衡を失ってすとんと転んでしまいそうな危い恰好をしているのです。

で、その危さを堪えようとして、

きゃしゃな体の筋肉を針線のように緊張させている点に、

いい尽せない姿態の美しさが発揚されて、

それが全身の至る所に漲っているのでした。

例えば落ちかかって来る肩を支えている左の腕の先は、

掌がぴったりと縁側の床板に吸い着いて、

五本の指は痙攣を起したように波打っています。

それから地面へ垂れている左の脚も、

ぶらりと無意味に垂れ下っているのではなく、

一杯に力が張られている証拠には、

その足の甲が殆んど脛と垂直に伸び、

親趾の突端が鳥の嘴のように尖っているのでも分ります。

中でも一番微妙に描かれているのは折れ曲っている右の脚と、

その足を拭こうとしている右の手との関係でした。

こういう姿勢を取った場合には、

必然そうでなければなりませんが、

折れ曲っている右の脚は実は右の手で無理に折り曲げられているので、

もしその手を放したら、

脚はぴんと地面の方へ弾ね返ってしまうのです。

従って、手はその足を拭いているばかりでなく、

同時にそれを逃がさないようにと引張り上げていなければなりません。

僕はここにも浮世絵師の巧緻な注意と有り余る才能とを認めない訳には行きませんでした。

なぜかというのに、

手がその足を引張り上げるのに、

踝を握るとか甲を摑むとかすれば比較的簡単であるものを、

わざとそうは画かないで、

足の薬趾と中趾との股の間に手を挿し入れ、

わずかに小趾と薬趾と二本の趾を摘まんだだけで、

辛くもその脚全体を持ち上げさせているのです。

脚は今にも可愛い小さい手の中から二本の趾を擦り抜けさせようとして、

圧し着けられたぜんまいの如く伸びんとする力を撓めさせつつ、

宙に浮いた膝頭をぶるぶると顫わせています。

こう申し上げたら、

僕の説明しようと努めている図面がどういうものであるか、

大概先生にもお分りになったでしょう。

美しい姿をした女が、

枝垂柳のようにぐったりと手足を弛ませて、

ぼんやりとたたずんでいる所や寝崩れている所も情趣はありましょうけれど、

この絵の如く全身をくねくねと彎曲させて、

鞭のような弾力性を見せている所を、

その特有の美しさを傷ける事なしに描き出すのは遥かにむずかしいに違いありません。

そこには「柔軟」と共に「強直」があり、

「緊張」の内に「繊細」があり、

「運動」の裏に「優弱」があるのです。

たとえば声を振り搾って喉も張り裂けんばかりに囀り続けている鶯の、

一生懸命な可愛らしさとでもいうべきものが現れているのです。

実際、これだけの姿勢にこれだけの美を与えるためには、

その女の手足の一本一本の指の先に至る筋肉にまでも、

十分な生命が籠っているように描写しなければなりません。

この女のこの姿勢は、

強いて嬌態を示さんがために工夫を凝らしたり誇張をしたりしたものでないとはいえますまいが、

しかし決して不自然な無理な姿勢ではありませんでした。

塚越老人はこの押絵と同じポーズを富美子にとらせて、画学生に油絵にしてもらうようにと頼みます。
しかしこんな難しいポーズはまだ修行中の画学生に到底かけるようなものではありません。

画学生は断りますが、塚越老人はなおもしつこく頼みます。

その時の塚越老人の顔つきがちょっと不思議でした。

物の言い方や態度はいつもと変わらないのですが、いつの間に眼の表情がすっかりかわっているのです。

何かじいっと見つめているような、眼が眼窩の底に吸い付いてしまったような一種異様に血走っためつきをしています。

それはたしかに、頭の中が急に乱調子になって気違いじみた神経がそこから覗いている事を暗示していました。
この眼つきの中には、何かしら尋常でないものが隠れているに違いない。隠居が親類の人たちから忌み嫌われる所以のものが、あるいはこの眼つきの蔭に醸されているのかもしれない。
咄嗟に僕はそう直覚しました。
同時に体中がぞっとするようなショックに打たれました。

富美子さんは塚越老人の目の色が変わりだすと、「またか」、というような困った顔をして「ちょッ」と舌を鳴らします。

何ですねえあなた、宇之さんの方で駄目だというものを、そんな無理をいったって仕様がないじゃありませんか。ほんとにあなたみたいな分らずやはありゃしない! 第一座敷のまん中で縁台へ腰かけたりなんかして、そんな面倒臭い真似をするのは私が御免蒙るわ。

すると塚越老人は今度は、今度は富美子に向かってぺこぺこと哀願してお願いだから、このポーズをとってくれと頼みます。

顔はにこにこ笑っていましたが眼は相変わらず血走っています。

富美子はついに我を折って、こう画学生に頼みます。

ほんとに宇之さんにはお気の毒ですけれど、この人は気違いなんだから手が附けられないんですよ。まあ画けても画けないでも構いませんから、当人の気の済むように真似事だけでもしてやって下さいな。

画学生は

そうですか、じゃあともかくもやってみましょう

と同意しました。

座敷の真ん中に夏の涼み台に使うような竹の縁台を持ち出して、そこへ富美子が腰かけて押絵の女と同じポーズをとります。

まもなく画学生は驚きます。

富美子は、押絵の女になりきってしまったのです。

画学生はこんな難しいポーズを見事にこなして、さらに絵の中の女と寸分たがわず美しく艶めかしい富美子にうっとりします。

押絵と富美子を見比べれば見比べるほどどちらが絵でどちらが人間だかわからなくなります。

はては国貞は富美子をモデルにしてこの絵を画いたのでは? とさえ思えてきます。

それにしても塚越老人はなぜ富美子にこのポーズをとらせたかったのだろうか? と画学生は考えました。

もちろんこのポーズをすれば富美子の体の妖艶な趣が平凡な姿勢よりもいっそうよく発揮されるに違いませんが、ただそれだけの理由で塚越老人が、あんな血走った眼をするほど無住になってのぼせ上がるはずがないと思われました。

画学生は富美子の撮っているポーズでは通常のポーズでは現れない女の肉体美の一部が出ていることに気が付きます。

それは、はだけかかった着物の裾からこぼれている脚、脛からつま先までの曲線でした。

実は画学生は、脚フェチ。

子供ころから若い女性の整った足の形を見ることに、異様な快感を覚える性質を持っています。

さてここからの富美子の足の描写がスゴイ!

真直ぐな、白木を丹念に削り上げたようにすっきりとした脛が、

先へ行くほど段々と細まって、

踝の所で一旦きゅっと引き締まってから、

今度は緩やかな傾斜を作って柔かな足の甲となり、

その傾斜の尽きる所に、

五本の趾が小趾から順々に少しずつ前へ伸びて、

親趾の突端を目がけつつ並んでいる形は、

お富美さんの顔だちよりもずっと美しく僕には感ぜられました。

お富美さんのような「顔立ち」は、世間に類がないことはありませんけれど、

こんな形の整った立派な「足」は今までかつて見たことがありません。

甲がいやに平べったかったり、

趾と趾との列が開いていて、

間が透いて見えたりする足は、

醜い器量と同じように不愉快な感じを与えるものです。

しかるにお富美さんの足の甲は十分に高く肉を盛り上げ、

五本の趾は英語のmという字のようにぴったり喰着き合って、

歯列の如く整然と列んでいます。

しんこを足の形に拵えて、

その先を鋏でチョキンチョキンと切ったらばこんな趾が出来上るだろうかと思われるほど、

それ等は行儀よく揃っているのです。

そうして、もしその趾の一つ一つをしんこ細工に譬えるとしたならば、

その各々の端に附いている可愛い爪は何に譬えたらいいでしょうか?

碁石を列べたようだといいたいところですが、

しかし実際は碁石よりも艶があり、

そうしてもっとずっと小さいのです。

細工の巧い職人が真珠の貝を薄く細かに切り刻んで、

その一片一片を念入りに研き上げて、

ピンセットか何かでしんこの先へそっと植え附けたら、

あるいはこんな見事な爪が出来上るかもしれません。

こういう美しいものを見せられるたびごとに、

僕はつくづく、

造化の神が箇々の人間を造るに方って甚だ不公平であることを感じます。

普通の獣や人間の爪は「生えている」のですが、

お富美さんの足の爪は「生えている」のではなく、

「鏤められている」のだといわなければなりません。

そうです、

お富美さんの足の趾は生れながらにして一つ一つ宝石を持っているのです。

もしその趾を足の甲から切り放して数珠に繫いだら、

きっと素晴らしい女王の首飾が出来るでしょう。

その二つの足は、

ただ無造作に地面を蹈み、

あるいはだらしなく畳の上へ投げ出されているだけでも、

既に一つの、

荘厳な建築物に対するような美観を与えます。

しかるにその左の方は、横さまに倒れかかろうとする上半身の影響を受けて、

ぐっと力強く下方へ伸ばされ、

わずかに地面に届いている親趾の一点に脚全体の重みをかけて、

趾の角でぎゅっと土を蹈みしめているのです。

そのために足の甲から五本の趾のことごとくが、

皮膚を一杯に張り切っていると同時に、

またどことなく物に怯えてぞっとしたような表情を見せつつ竦み上っているのです。

(表情という言葉を使うのは可笑しいかもしれませんが、

僕は足にも顔と同じく表情があると信じています。

多情な女や冷酷な人間は、

足の表情を見るとよく分るような気がします。)

それはちょうど、

何物かに脅やかされて将に飛ぼうとしている小鳥が、

翼をひしと引き締めて、

腹一杯に息を膨らました刹那の感じに似ていました。

そうして、

その足は甲を弓なりにぴんと衝立てているのですから、

裏側の柔かい肉の畳まった有様までが、

剰す所なく看取されました。

裏から見ると、

ちぢこまっている五本の趾の頭が、

貝の柱を並べたように粒を揃えているのでした。

もう一本の足の方は、

右の手で地上二三尺ばかりの空間に引き上げられているのですから、

全く異った表情を示していました。

「足が笑っている」といったら、

あるいは普通の人には腑に落ちないかもしれません。

先生にしても、

ちょっと首を捻って変な顔をなさるでしょう。

しかし僕は、

「笑っている」というより外にその右足の表情をいい現わすべき言葉を知りません。

ではその足はどんな形をしていたかというと、

小趾と薬趾と二本の趾を撮まれて宙に吊るし上げられているために、

残りの三本の趾がバラバラになって股を開き、あたかも足の裏を擽られる時のように、

妙なしなを作って捩れているのでした。

そうです、

足の裏が擽ったい時などに、

甲と趾とはしばしばこういう表情を見せるのです。

擽ったい時の表情だから笑っているといったって少しも差し支えはないでしょう。

僕は今も、

しなを作っているといいましたが、

趾と甲とが互いに反対の方角へ思い切り反り返って、

その境目の関節に深い凹みを拵えている形、

──足全体が輪飾りの蝦の如く撓められている形、

それはたしかに見る人の眼に一種の媚びを呈するものだと、

僕は思います。

お富美さんのように踊りの素養があって、

体中の関節が自由にしなしなと伸び縮みするのでなければ、

とてもあんなになまめかしく足が反り返るものではありません。

そこには阿娜っぽい姿の女が、

身を飜して舞っているような嬌態があるのです。

それからもう一つ見逃す事の出来ないのは、

その円くふっくらとした踵でした。

大概の女の足は、

踝から踵に至る線の間に破綻がありますけれど、

お富美さんのはほとんど一点の非の打ちどころもないのでした。

僕は幾度か用もないのにお富美さんの後ろへ廻って、

前からは十分に翫賞する事の出来ないその踵の曲線を、

こっそりと、

しかし頭の中に焼き付けられるまでしみじみと貪り視ました。

下にどういう骨があって、

それにどういう風に肉が纒い附いたら、

こんな優しい、

円ッこい、

つやつやとした踵が結ばれるのでしょう。

お富美さんは生れてから十七になるまで、

この踵で畳と布団より外には堅い物を蹈んだ事がないのでしょう。

僕は一人の男子として生きているよりも、

こんな美しい踵となって、

お富美さんの足の裏に附く事が出来れば、

その方がどんなに幸福だかしれないとさえ思いました。

それでなければ、

お富美さんの踵に蹈まれる畳になりたいとも思いました。

僕の生命とお富美さんの踵と、

この世の中でどっちが貴いかといえば、

僕は言下に後者の方が貴いと答えます。

お富美さんの踵のためなら、

僕は喜んで死んでみせます。

お富美さんの左の足と右の足、

──こんなに似通った、

こんなにも器量の揃った姉と妹とがまたと二人あるでしょうか?

そうして二人は、

お互いに思い思いの姿をして、

その美を競い合っているではありませんか。

──僕はその美を高調するのに余り多くの文字を費しましたが、

最後に尚一と言附け加えさせて貰いたいのです。

それは今いった美しい姉妹、

彼女の二つの足を蔽うている肌の色です。

どんなに形が整っていても、

皮膚の色つやが悪かったらとてもこうまで美しいはずはありません。

思うにお富美さんは、

自分でも足の綺麗な事を誇りとしていて、

お湯へはいる時などに、

顔を大事にすると同じように足を大事にしているのでないでしょうか?

とにかくその肌の色は、

年中怠らず研きをかけているに違いない潤沢と光とを含んで、

象牙のように白くすべすべとしていました。

いや、実をいうと、

象牙にしたってこんな神秘な色を持ってはいないでしょう。

象牙の中に若い女の暖い血を通わせたらば、

あるいはいくらかこれに近い水々しさと神々しさとの打ち交った、

不思議な色が出るかもしれません。

その足は、白いといってもただ一面に白いのではなく、

踵の周りや爪先の方がぽうと薔薇色に滲んで、

薄紅い縁を取っているのです。

それを見ると、

僕は覆盆子に牛乳をかけた夏の喰物を想い出すのでした。

白い牛乳に覆盆子の汁が溶けかかった色、

──あの色が、

お富美さんの足の曲線に添うて流れているのでした。

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