谷崎潤一郎『鍵』 あらすじ

夫いよいよ死の淵にたたされる

四月十五日(夫の日記)

自分の頭脳が日に日に駄目になりつつあることが自分にもわかる。

正月以来、他の一切を顧みず妻を喜ばすことのみに熱中していたら、いつのまにか淫欲以外のすべてのことに興味を失ってしまった。

読書したり物を思考する能力が全く衰えてしまった。

昼間書斎に籠っている時はたまらない不安に襲われる。

散歩をすると不安がまぎれるけれど、最近では散歩が不自由になってきた。

眩暈がひどくて歩行が困難なことがしばしばなのである。

路上で仰向けに倒れそうになることもある。

脚の力も弱っていて、歩きすぎるとすぐに疲れる。

今日妻が洋装していた。

スカートから除く足は歪んでいて不格好だったがそれがかえって艶めかしく見えた。

僕は妻のスカートから除いた脚を見ながら今夜のことを考えていた。

四月十六日(妻の日記)

午前中買い物に行った。

十一時頃に家に戻って花をいけていると、夫がようやく起きてきた。

夫はもともと早起きだったが、最近はよく朝寝坊をする。

「今お起きになったの」と聞くと夫は「今日は土曜日だったのか」と言ってから、「明日は朝からでかけるんだろうね」と続けた。

私は肯定とも否定ともつかない返事を口の中でもぐもぐと言った。

二時ごろ指圧の治療師がやってきた。

夫は昔から見知らぬ人に足腰をもませることが嫌いな人で、今まで按摩やマッサージをたのんだことなどなかった。

婆やに聞くと、夫が肩こりがつらくてたまらない、と言っていたので、婆やが知っているマッサージ師を紹介してあげたそうだ。

マッサージ師は

「えらく凝ってますな、じきに楽にして上げます」

と言い、二時間ぐらいした後、

「もう一回か二回で楽になります、明日も来て上げます」

と言って帰っていきました。

四月十七日(妻の日記)

夫にとって重大な事件の起った日、私にとっても重大な日であったことに変りはない。

事によると今日の日記は生涯忘れることのできない思い出になるのではないかと思う。(中略)

私は大阪のいつもの家に行って木村氏に逢い、いつものようにして楽しい日曜日の半日を暮らした。(中略)

私と木村氏とはありとあらゆる秘戯の限りを尽して遊んだ。

私は木村氏がこうしてほしいと云うことは何でもした。

何でも彼の注文通りに身を捻じ曲げた。

夫が相手ではとても考えつかないような破天荒な姿勢、奇抜な位置に体を持って行って、アクロバットのような真似もした。

(いったい私は、いつの間にこんなに自由自在に四肢を扱う技術に練達したのであろうか、自分でも呆れるほかはないが、これも皆木村氏が仕込んでくれたのである)

木村とのあいびき後、家に帰ると夫は散歩に行っていました。

ばあやに聞くと、妻の留守中に今日もまた指圧師が来て、二時間半ぐらい夫を揉んでいったといいます。

肩がこんなにひどく凝るのは血壓の高い証拠であるが、医者の薬なんぞ利ききはしない、どんなに偉い大学の先生にかかってもそう簡単に直るはずはない、それより私にお任せなさい、請うけ合って直して上げる、私は指壓ばかりでなく、鍼はりや灸やいとも施術する、まず指壓をして利かなかったら鍼をする、眩暈めまいは一日で効験が現われる、などとあの男は云ったという。

血壓が高いといっても、神経に病んで頻繁に測るのはよろしくない、気にすれば血壓はいくらでも上る、二百や二百四五十あっても不養生をして平気で生きている人が何人もいる、むやみに気にしない方がよい、酒や煙草たばこも少しぐらいは差支えない、あなたの高血壓は決して悪性のものではないから、大丈夫良くなりますと云ったとやらで、夫はすっかりあの男が気に入ってしまい、これから当分毎日来てくれ、もう医者は止める、と云っていたという。

夫が散歩から戻ってきた後、二人で食事になります。

夫はヒレ肉のビフテキを食べます。

医者からは脂っぽいものは控えるように言われているのですが、それでも夫は精をつけるために食べたがるのでした。

またブランデーも一人で一杯ずつ飲みます。

そして二人は夫婦の行為を始めます。

妻はもう夫を嫌っているのですが、不思議と夫の行為はそれほど嫌ではありませんでした。

私は、愛情と淫慾とを全く別箇に処理することができるたちなので、一方では夫を疎うとんじながら、―――何というイヤな男だろうと、彼に嘔吐おうとを催しながら、そういう彼を歓喜の世界へ連れて行ってやることで、自分自身もまたいつの間にかその世界へはいり込んでしまう。

そんなわけで二人が燃えあがっている最中でした。

夫の体がにわかにぐらぐらとして、妻の体の上に崩れ落ちてきました。

私はすぐに異常なことが起ったのを悟った。

「あなた」と私は呼んでみたが、彼はロレツの廻らない無意味な声を出すのみで、生ぬるい液体がたらたらと私の頬を濡らした。

彼が口を開けて涎よだれを滴たらしているのであった。………

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