夫が寝たきりになっても、木村とのあいびきは続く
四月十八日(妻の日記)
その後夫は昏睡状態となります。
妻は敏子を呼びました。
医者を呼んでみてもらうと原因は脳溢血のようでした。
妻との行為が一番の引き金でしたが、二日間も二時間以上強い指圧をしたのもいけなかったようです。
その後、夫は昏睡からは目をさましましたが、口をもぐもぐさせるだけ。
まともに口も聞けない状態です。
食事は牛乳と果汁で、自力で排便もできなくなってしまいました。
看病のために看護婦さんも呼びます。
妻は木村に電話をして夫の様態を知らせます。
木村は、見舞いに行きたいと言いました。
妻は病人を興奮させるといけないから、病室にはあがらず玄関までで帰ってほしいと木村に頼みます。
四月十九日以降(妻の日記)
夫の様子は相変わらずです。
何か言葉を発していますが、不明瞭で聞き取れません。
夫はたまに言葉を発するとき「きーむーら」と言っているように聞こえます。
また「にーき」「にーき」ともいいます。
妻が「日記をお附けになりたいの? でもまだ無理よ」と聞くと、夫は違うと首を振ります。
そして夫は「お前は……お前は日記をどうしている?」と聞きます。
妻は「私は昔から日記なんてつけていません、そんなこと、あなたは知ってはるやありませんか」とごまかしました。
しかし妻は夫が自分の日記に関心をもっていることを知ると危機感を覚えました。
妻はこう考えました。
それはかまわない。
しかし夫が倒れた後の日記は読まれないことを想定して書いているので夫に読まれたくない。
彼が自分の力で私の日記を読めなくなった今、私に日記を読ませてくれといったらどうしよう。
夫が倒れて以後の日記は読まれたくない。
そうだ妻は日記を製本しなおそう。
夫が倒れる以前の日記、倒れた以後の日記を二冊に分けよう。
そして、もし夫が日記を読ませてくれ、と言ったら、倒れる以前の日記を見せて、「私はあなたが倒れてから日記をつけていません」と言おう。
毎晩夜十一時になると、木村が必ず家を訪ねてきて、一時間ぐらいたって帰ります。
(はっきりとは書かれていませんが、日記のふしぶしから、二人はほぼ会話をせずに愛し合う行為をしている、ということがわかります)
夫が倒れてからと言うもの敏子が毎日のように看病にきます。
ある日敏子は母にこう言います。
「ママ、買い物が溜っていはしないの。
………たまの日曜に外の空気を吸うて来やはったらどう?」
妻はこれは木村が敏子に言われてのことではないか? と思って外出し、買い物がてらに木村に会いに行きます。
木村とほんの少し話した後、すぐに愛し合う行為に入り、一時間ぐらいして家に戻ります。
五月一日(妻の日記)
夫が倒れてから三度目の日曜日でした。
敏子が家にきて、「買い物かたがた息抜きしてらっしゃい。私の下宿のお風呂が沸いているから、ついでに入っていらっしゃい」と母をねぎらいます。
郁子が敏子の下宿に行ってみると、風呂は沸いていなくて、下宿の女主人は留守。
しかも木村がいました。
木村に聞くと、敏子に「今日は下宿のマダムが留守で、私も家に看病に行くから、すまないけれど二三時間留守番に来てほしい」と言われたというのです。
郁子は木村と半月ぶりにゆっくり話すことができた。
(二人はしばしば会ってはいたのですが、会うたびに、ろくに話もせずに、すぐに愛し合う行為に入っていたので、ゆっくり話せたのは半月ぶりなのです)
郁子が家に帰ると看護婦さんが血色のよい顔で「お嬢さんにお願いして、お風呂へ行ってきました」と言います。
郁子はハッとします。
それにそうなるように仕向けたのは敏子らしい。
日記を敏子に盗み読みされたのではないだろうか?
あわてて日記を確かめます。
しかし、いつも盗み読みを心配していた夫が倒れて以来、読まれることを想定していなかったため、セロハンテープの封はしていませんでした。
日記を確かめても、読まれたか読まれなかったのかはなかなか判別がつきません。
日記が敏子に読まれたかどうか気がかりでしかたがない郁子。
婆やに今日の午後自分が外出した後で、誰かが二階の書斎へ上がりはしなかったか? と尋ねます。
婆やは
「はあ、お嬢さんがお上りになりました」
と答えます。
婆やによると、妻が出かけてから15分ほどたって看護婦さんが銭湯へ出かけたらしい。
それから間もなくして敏子が二階へ上って行ったそうですが、二三分で下りてきて病室に戻り、夫と何か話している様子だったといいます。
そして敏子は夫としばらく話したのち、もう一度二階へ上って、またすぐ下りてきたといいます。
妻はこう疑います。
ここで一往いちおう敏子の今日の行動を順に並べてみると、―――午後三時、口実を設けて私を外へ出してしまう。
次に小池さんを風呂へ行かせる。
次に病人が自ら眼を覚まして敏子に告げたか、敏子から病人に働きかけたか、そこのところは不明であるが、彼女は私の日記帳が茶の間の用箪笥に入れてあることを知り、それを捜し出して病人の枕元へ持って来る。
病人が、この帳面は四月十六日で終っているが、十七日以後の分も必ずどこかに秘してあるに違いない、己おれが読みたいのはその方であるから捜してくれと云う。
そこで彼女は二階の書棚を探って見つけ出す。
次にそれを病室へ持参して病人に見せる。
あるいは読んで聞かせる。
次に二階へ持って上って元の場所に収めて来る。
小池さんが戻って来る。