谷崎潤一郎『人魚の嘆き』あらすじ

谷崎潤一郎『人魚の嘆き』

『人魚の嘆き』は大正6年(1917年)に発表された谷崎潤一郎の小編。

読みながらうっとり!

耽美的な作風です。

谷崎潤一郎『人魚の嘆き』簡単なあらすじ

清代の南京。若い貴公子は富豪の家に生まれ、父親は乾隆帝の寵臣でした。
彼は財産、美貌、才智に恵まれ、南京中で最も優れた男として知られています。
しかし、放蕩で贅沢な生活に疲れ、退屈な日々を送っています。普通の快楽には満足できず、貴公子は珍しい酒や美女を求めます。商人や人買いが彼の要求に応えようとしますが、貴公子は常に超博識で彼らを追い返します。彼の愛人たちは、売られてくる美女よりも美しいため、人買いたちは恥ずかしくなって逃げ帰ります。

ある日貴公子のもとに不思議な外見の異国の商人が現れます。
商人は貴公子に人魚を売りに来たと告げます。貴公子は感銘を受けて人魚を購入します。

貴公子は人魚を愛し、彼女もまた貴公子に心を寄せていますが、水がめの中での彼らの恋は切ないものです。貴公子は人魚に半身でも外に出してほしいと頼みますが、人魚は彼が近づくのを拒み、夜になると涙を流します。
彼女は貴公子に自分を海に返してほしいと懇願し、海蛇の姿となります。
自分を海に返してくれたらまた人魚に戻った姿を見せるという約束の言葉を残して。

貴公子は海蛇に姿を変えた人魚の入った小さなガラスの入れ物を携え、香港からイギリス行きの汽船に乗りました。シンガポールを出発し、赤道直下を航行する船上で、貴公子は海蛇を海に放ちます。貴公子は一瞬美しい姿に戻った人魚を見ることができましたが、すぐに海に消えてしまいます。

谷崎潤一郎『人魚の嘆き』ネタバレ 詳しいあらすじ

超チートな主人公

舞台は清代の南京。

富豪の家に生まれた若い貴公子がいました。

若い貴公子の父親は乾隆帝の寵臣で、巨万の富をたくわえました。

貴公子の両親は二人とも、今はこの世の人ではありません。

貴公子は若くして山のような金銀財宝を独り占めできる身分でした。

貴公子は由緒ある家柄の血筋を引いているだけでなく、絶世の美男子でした。

さらに才智にも恵まれています。

財産、美貌、頭脳、どれをとっても南京中の若者のなかで彼より秀でているものはいません。

彼と美妓を奪い合ったり、詩文の優劣を競う男はことごとく負けてしまいます。

ものすごいチートぶり……

南京中の女性たち皆が、一度でいいからあの美しい貴公子の恋人になりたい……と願っていました。

贅沢病な貴公子

貴公子は、総角(あげまき……昔の中国の少年の髪型)を大人の男性の髪型に変えた頃から、色町で遊ぶようになりました。

二十二、三歳の頃にはありとあらゆる、放蕩、贅沢を味わいつくしてしまいました。

そのせいか近頃では頭がぼんやりとしてきて、何処へ行っても面白くなく、ついに屋敷に引きこもってうつらうつらと退屈な日々を送っています。

どうだい君、此の頃はめっきり元気が衰えたようだが、ちと町の方へ遊びに出たらいいじゃない。

まだ君なんぞは、道楽に飽きる年でもないようだぜ。

友達にこう聞かれると貴公子はこう答えます。

うん、……己だってまだ道楽に飽きては居ない。

しかし遊びに出たところで、何が面白い事があるだろう。

己にはもう、有りふれた町の女や酒の味が、すっかり鼻について居るんだ。

ほんとうに愉快なことがありさえすれば、己はいつでもお供をするが……」

少年の頃からありとあらゆる快楽を味わってきたため、もう普通の快楽では満足できなくなってしまったのでしょう。

しかし貴公子は自分もいつまでもうら若い美しい若者でいられるわけではないことを知っていました。

そして青春まっさかりの今のうちに、何とかして、また二三年前のような興奮した心持になりたいと、と焦りを感じていました。

しかし

もはや歓楽の絶頂を極め、痴狂の数々を経験し尽した彼に取って、もう其れ以上の変った遊びが、この世に存在する筈はありませんでした。

そこで貴公子は珍しい酒を集めます。

また四方の国々から集めた美女の中でも、ことさら美しい七人の女性を愛人にして、屋敷に住まわせます。

酒の美女の描写がきらびやかなので引用しましょう。

甜くて強い山西の潞安酒、淡くて柔かい常州の恵泉酒、其の外蘇州の福珍酒だの、湖州の烏程潯酒だの、北方の葡萄酒、馬奶酒、梨酒、棗酒から、南方の椰槳酒、樹汁酒、蜜酒の類に至るまで、四百余州に名高い佳醴芳醇は、朝な夕なの食膳に交る交る盃へ注がれて、貴公子の唇を温おしました。

七人の妾たちは、互いに斯う云って訝りながら、有らん限りの秘術をつくして、貴公子の御機嫌を取り結びます。

紅々と云う、第一の妾は声が自慢で、隙さえあれば愛玩の胡琴を鳴らしつつ、婉転として玉のような喉嚨を弄び、鶯々と云う、第二の妾は秀句が上手で、機に臨み折に触れては面白おかしい話題を捕え、小禽のような綘舌蜜嘴をぺらぺら囀らせる。

肌の白いのを得意として居る、第三の妾の窈娘は、動ともすると酔に乗じて、神々しい二の腕の膩肉を誇り、愛嬌を売り物にする第四の妾の錦雲は、いつも豊頬に腮窩を刻んで、さもにこやかにほほ笑みながら、柘榴の如き歯列びを示し、第五、第六、第七の妾たちも、それぞれ己れの長所を恃んで、頻りに主人の寵幸を争うのです。

しかし貴公子は相変わらず物足りないのでした。

そこで貴公子は屋敷に出入りする商人にこんな注文を言いつけました。

金はいくらでも出してやるから、もっと変わった酒はないか

もっと美しい女は居ないか。

商人たちは貴公子の要求をかなえるため、あるいは金欲しさに、さまざまな珍しい貴重品を売りに貴公子の屋敷にやってきます。

ある商人は「これは西安の老舗の蔵から見つけ出した千年も前の酒です。唐の時代の皇帝や皇后も嗜んだものなんですよ」と言って、古めかしい酒壺に入った酒を持ってきます。

しかし貴公子は美術骨董に関しては超博識。

「この酒壺は江南の南定窯というもので、南宋以前にはなかった代物だ。それに唐代の酒が入っているわけがないではないか?」
と商人を追い返してしまいます。

また人買いが美女を売りに来ると、貴公子は人買いに、七人の愛人たちを見せるのです。

そしていつだって売られてきた女性に比べて、貴公子の七人の愛人の方が美しいのです。

人買いは、自信満々で売りに来た美女の容姿が大したことがないのが恥ずかしくなってしまい、逃げかえります。

不思議な商人と人魚

さてこんな調子で日々は過ぎ、貴公子も二十五歳になりました。

ある日の夕方貴公子が、展望のよい屋敷の露台に出て、市街の雑踏を眺めていました。

貴公子は一人の不思議な男に目を止めます。

其の男は、頭に天鵞絨の帽子を冠り、身に猩猩緋の羅紗の外套を纒い、足には真黒な皮の靴を穿いて、一匹の驢馬に轎を曳かせて来るのです。

そうして、折角の靴も帽子も外套も、長途の旅に綻びたものか、ところどころ穴が明いたり、色が褪せたりして居ます。
(中略)
彼は時々立ち止まって、さもさも疲労したような溜息を洩らしつつ、往来の喧囂を眺めて居ます。

且其の男は、啻に服装ばかりでなく、皮膚や毛髪や瞳の色まで、全く普通の人間と類を異にして居るのでした。

貴公子が「あれは多分、西洋の人種に違いあるまい」と思っていると、男は貴公子のいる露台の真下へやってきました。

男は帽子をとって、貴公子に恭しく挨拶をします。

喧噪のなか、男は貴公子にカタコトの中国語でこう言います。

此の車の轎の中には、南洋の水底に住む、珍しい生物が這入って居ます。

私はあなたの噂を聞いて、遠い熱帯の浜辺から、人魚を生け捕って来た者です。

貴公子は強く興味を持ちます。

貴公子は大急ぎで商人を屋敷に招きました。

商人はおぼつかない中国語で貴公子にこう語ります。

「私が此の人魚を獲たのは、広東の港から幾百海里を隔てて居る、蘭領の珊瑚島の附近でした。

或る日私は、其所へ真珠を採りに行って、思いがけなく真珠よりももっと貴い、美しい人魚を得たのです。

人は真珠を恋することは出来ませんが、いかなる人でも人魚を見たら、彼の女を恋せずには居られません。

真珠には冷やかな光沢があるばかりです。

しかし人魚は妖麗な姿の内に、熱い涙と暖かい心臓と神秘な智慧とを蔵して居ます。

人魚の涙は真珠の色より幾十倍も浄らかです。

人魚の心臓は珊瑚の玉より幾百倍も赤うございます。

人魚の智慧は、印度の魔法使いよりも不思議な術を心得て居ます。

人間の測り知られぬ通力を持ちながら、彼の女はたまたま背徳の悪性を具えて居る為めに、人間よりも卑しい魚類に堕されました。

そうして青い青い海の底を游ぎながら、常に陸上の楽土に憧がれ、人間の世界を慕うて、休む暇なく嘆き悶えて居るのです。

其の証拠には、人は誰でも彼の美しい人魚の顔に、幽鬱な憂の影を認める事が出来ましょう………。」

斯う云った時、異人は不自由な人魚の身の上を憐むが如く、自分も亦うら悲しげな表情を浮べました。

わけのわからないロマンチック風なセールストークをして、悲しげな表情まで浮かべてみせる商人。

うさんくささと、神秘性が共存していますね。

商人によると彼は人魚を見つけたのち、半年ばかりアジアの港という港を遍歴しましたが、誰も人魚を買おうとしなかったそうです。

なぜなら人魚はあまりにも高価なのです。

そのお値段は……

亜拉比亜の金剛石七十箇、交趾支那の紅宝石八十箇、其れに安南の孔雀九十羽と暹羅の象牙百本

そんなに苦労して生け捕ったわけではないので、ここまで高価でなくてもよいような気がします。

さすがうさんくさい商人の言うことですね。

そして人魚に買い手がつかない理由は他にもありました。

それは商人によると……

又或る者は、人魚の恋が恐ろしさに、疎毛(おぞげ)を慄って(ふるって)逃げてしまいます。

なぜと云うのに、昔から人間が人魚に恋をしかけられれば、一人として命を全うする者はなく、いつとはなしに怪しい魅力の罠に陥り、身も魂も吸い取られて、何所へ行ったか人の知らぬ間に、幽霊の如く此の世から姿を消してしまうのです。

商人はある日マカオで知り合いの貿易商から貴公子の噂を聞き、はるばる南京までやってきたのでした。

商人の口ぶりはあたかも貴公子が自分の商品を買うことを確信しているかのようでした。

商人の話を聞いているうちに、貴公子は商人に人魚を買うように命令をうけているような気分になります。

かといって貴公子は不思議と商人にまったく反感を持ちませんでした。

貴公子は人魚を見ることもせずに商人の言い値で買ってしまいます。

貴公子が商人の言う通りの代価を払うと(よくこんなものが運よく屋敷にありましたね)人魚が貴公子の屋敷に運び込まれました。

人魚はガラスの水がめに入っていました。

人魚は美しい女性の姿をしています。

貴公子が夢にも見たこともないような美女で、貴公子は満足します。

私は此れ迄、心私に自分の博い学識と見聞とを誇って居た。

昔から嘗て地上に在ったものなら、如何に貴い生き物でも、如何に珍らしい宝物でも、私が知らないと云う事はなかった。

しかし私はまだ此れ程に美しい物が、水の底に生きて居ようとは、夢にも想像した事がない。

(中略)幻覚の世界にさえも、此の幽婉な人魚に優る怪物は住んで居ない。

恐らく私は、人魚の値段が今支払った代価の倍額であろうとも、きっとお前から其の売り物を買い取っただろう………。

そこまで人魚が貴公子の心をとらえた理由には、彼女が貴公子でも今までも見たことがないようなタイプの美女だったからです。

人魚は西洋人種でした。

青い瞳、暗緑色の髪(髪は金髪ではなくて黒髪だったのですね)、そして今まで見たことのないような純白の肌。

彼の女の純白な、一点の濁りもない、皓潔無垢な皮膚の色でした。

白いと云う形容詞では、とても説明し難いほど真白な、肌の光沢でした。

其れは余りに白過ぎる為めに、白いと云うより「照り輝く」と云った方が適当なくらいで、全体の皮膚の表面が、瞳のように光って居るのです。

何か、彼の女の骨の中に発光体が隠されて居て、皎々たる月の光に似たものを、肉の裏から放射するのではあるまいかと、訝しまれる程の白さなのです。

而も近づいて熟視すれば、此の霊妙な皮膚の上には微な無数の白毫のむく毛が、鬖々と生えて旋螺を描き、其の末端にさながら魚の卵のような、眼に見えぬ程の小さな泡が、一つ一つに銀色の玉を結んで、宝石を鏤めた軽羅の如く、彼の女の総身を掩うて居ます。

貴公子は「商人はこんな美しいものを金儲けのために売ってしまうのが惜しくはないのか?」と心配になりました。

お前は人魚が惜しくはないか。

あれだけの値で私に売ったのを、今更後悔しては居ないか。

お前の国の人たちは、なぜ人魚より宝石の方を珍重するのだろう。

お前はどうして、此の人魚を自分の国へ持って帰ろうとしないのだろう。

と尋ねると、商人は西洋では人魚は珍しくないと答えます。

成る程あなたがそう仰つしゃるのは御尤もです。

しかし西洋の国々では、人魚はそんなに珍し物ではありません。

私の国は欧羅巴の北の方の阿蘭陀と云う所ですが、私の生れた町の傍を流れて居るライン河の川上には、昔から人魚が住むと云う話を、子供の時分に聞いた事がありました。

彼の女は時とすると、人間のような下半身を持ち、或ひは鳥のような両足を具えて、地中海の波の底にも、大陸の山林水澤の間にも、折々形を現わして人間を惑わす事があるのです。

私の国の詩人や絵師は、絶えず彼の女の神秘を歌い、姿態を描いて、人魚の媚笑のいかになまめかしく、人魚の魅力のいかに恐ろしいかを、我れ我れに教えて居ます。

それ故欧羅巴では、人魚ならぬ人間までも、ひたすら彼の女の艶容を学んで、多くの女が孰れも人魚と同じような、白い肌と、青い瞳と、均整な肢體の幾分づつを具備して居ます。

若し貴公子が其れをお疑いなさるなら、試みに私の顏と皮膚の色とを御覽なさい。

取るに足らない私のような男でも、西洋に生れた者は、必ず何処かに、此の人魚と共通な優雅と品威とを持つて居るでしょう。

そして貴公子が商人の容姿を眺めてみると、確かにこの商人にも人魚と似た美しい優美なところがあるのでした。

それを聞いた貴公子は西洋にすっかり憧れてしまいました。

商人に「どうか僕をお前の国につれていってくれ!」と頼みますが商人には断られてしまいます。

いやいや私は、寧ろあなたが南京に留まつて、出来るだけ長く、出来るだけ深く、哀れな人魚を愛してやる事を、あなたの為に望みます。

たとえ欧羅巴の人間が、いか程美しい肌と顏とを持つて居ても、彼等は恐らく、此の水甕の人魚以上にあなたを満足させる事は出来ますまい。

此の人魚には、欧羅巴人の理想とする凡べての崇高と、凡べての端麗とが具体化されて居るのです。

あなたは此処に、此の生き物の姚冶な姿に、欧羅巴人の詩と絵画との精髄を御覽になる事が出来るのです。

此の人魚こそは欧羅巴人の肉体が、あなたの官能を楽しませ、あなたの霊魂を醉わせ得る、『美』の絶頂を示して居ります。

あなたは彼の女の本国へ行つても、此れ以上の美を求めることは出来ないでしょう。………

そして商人は貴公子に慇懃な礼をすると去っていきました。

「私はあなたがお気の毒でならないような気がします」と意味深な言葉を残して。

人魚の嘆き

それからというものの貴公子の館はひっそりと静かになりました。

七人の美しい愛人たちはほったらかしにされます。

またかつては毎夜のようだった歌舞宴楽もぱったりとなくなってしまいました。

貴公子といえば毎日人魚の入った水がめの前で彼女を眺めています。

人魚も貴公子もお互いに相手に惹かれているのですが、切ないガラス越しの恋です。

貴公子は時々ガラスに近寄って人魚にこう頼みます。

「せめて体の半分だけでも甕の外に出してくれ」

しかし人魚は、貴公子が近寄れば近寄るほど、ますます固く肩を屈めて、さながら物に怖ぢたように水底へひれ伏してしまいます。

夜になると人魚は涙を流します。

そしてその涙は……

成る程異人の云ったように眞珠色の光明を放って、暗黒な室内に蛍の如く瑩々と輝きます。

その青白いあかるい雫が、點々とこぼれて水中を浮動する時、さらでも夭姣な彼の女の肢体は、大空の星に包まれた嫦娥のように浄く気高く、夜陰の鬼火に照された幽霊のように悽くの呪わしく、惻々として貴公子の心に迫りました。

ある晩貴公子はあまりの切なさに、熱燗の紹興酒を玉の杯についで飲んでいました。

すると酒の香りに惹かれたのか人魚が水面に上がってきました。

人魚は両腕を長く水がめの外に出しました。

貴公子が酒の入った杯を人魚の口元に寄せると、人魚は夢中になって酒を飲みほします。

そしてもっと欲しい、というようなしぐさ、顔つきをします。

今迄水がめの中に縮こまっていた人魚が、初めて生き生きとした姿を見せたのです。

貴公子は夢中になってこう言います。

そんなに欲しいならいくらでも飲ませてあげるよ。 君の血管に激しい酔いが燃え上がったら、定めし君は一層美しくなるであろう。 一層人間らしい親しみと愛らしさを示してくれることだろう。 君を僕に売った商人によると、君は神通力を持っているそうだね? また君には背徳の悪性があるというではないか? 僕は君の神通力や悪性を見てみたい。 君が本当に不思議な力を持っているのなら、せめて今宵一晩でよいから、人間の姿に変わってくれ。 そして僕の恋を聞き入れてくれ。

すると人魚が初めて言葉を発しました。

人魚

貴公子よ、どうぞ私を赦して下さい。

私を憐れんで赦して下さい。

そして彼女は語りだします。

人魚

私は今、あなたが恵んでくださった酒の力を借りて、人間の言葉を語る通力を回復しました。 私の故郷はヨーロッパの地中海にあります。 去年4月の末、温かい春の潮に乗せられて、ついうっかりと南洋の島国に迷い込んでしました。 そしてある浜辺の椰子の葉陰で休んでいるときに、人間にとらえられて、売られてしまいました。 貴公子よ、どうか私を可哀そうに思って、私をひろびろとした自由な海へ放してください

(貴公子) 君がそのように帰りたがるのは、きっとふるさとに恋人がいるからだろう。 君を男にしたような美しい人魚の男が君を待っているのだろう。 だから君は僕を嫌い、つれなくも僕の恋を振り捨てて故郷に帰りたがるのだろう

人魚

いいえ、わたしだって麗しいあなたに恋をしています。 嘘だと思うなら私の胸の動悸を聞いてください

人魚は後ろ向きになって、水がめから頭を出して、背中を水がめの外に反らせました。

水のしたたる長い髪が床に落ちます。

そして人魚は貴公子のうなじを下から抱きしめました。

すると人魚の肌に触れている貴公子の首は、まるで氷をあてられているように冷えてきて、ついには凍えて麻痺してしまいます。

そしてその冷たさは貴公子の全身に広がっていきます。

貴公子の全身があと寸前で凍り付いてしまいそうなときでした。

人魚は貴公子の手首をつかんで、貴公子の手を彼女の心臓の上におきました。

人魚はこう言います。

人魚

私の体は魚のように冷やかでも、私の心臓は人間のように暖かなのです。 此れが私のあなたを恋して居る証拠です

人魚の言うとおり、貴公子の手のひらは、熱を感じました。

そしてその温かさが全身に広がっていき、貴公子の体もまもなく温かさをとりもどしました。

人魚は悲しげにこう言いました。

人魚

私の心臓はあなたに恋して燃えているのに、私の皮膚は氷のように冷たいので人間と愛し合うことはできないのです。 私はあなたの前にいても苦しむだけです。 貴公子よ、どうか私を海に返して、この苦しさから救ってください。 もしあなたが私の願いを聞いてくださるなら、あなたに私の神通力を見せてさしあげましょう

貴公子が

おお、どうぞお前の神通力を示してくれ。

その代わりには、私はどんな願いでも聴いて上げよう。

と言うと。

人魚がこう言います。

人魚

貴公子よ、それでは私はもうお別れをいたします。

私が今、魔法を使って姿を変えてしまったら、あなたは嘸かし其れをお悔みなさるでしょう。

若しあなたが、もう一遍人魚を見たいと思うなら、欧州行きの汽船に乗って、船が南洋の赤道直下を過ぎる時、月のよい晩に甲板の上から、人知れず私を海へ放して下さい。

私はきっと、波の間に再び人魚の姿を示してあなたにお礼を申しましょう。

人魚の姿はクラゲのように薄くなります。

溶けるように消え失せた後に、小さな海蛇が水がめのなかに浮いていました。

人魚は海蛇に姿を変えてしまったのです。

月光の下の別れ

その年の春の初め、貴公子は香港からイギリス行の汽船に乗りました。

ある晩、船がシンガポールの港を出発して、赤道直下を走っている時でした。

貴公子は人魚に言われたとおり、人気のない甲板に月の光を浴びながら立っています。

そして懐から小さなガラスの入れ物を出して、中にいる海蛇をつまみだしました。

蛇は別れを惜しむかの如く貴公子の手首に二三度からみつきましたが、まもなく貴公子の指先からはなれ、海上に降りました。

そして水面に潜っていきました。

それから五分ほどたった時でした。

水面がもっとも眩く月光を反射しているところに、人魚が現れました。

天上の月のウサギが海に落ちたかと疑われるほど美しいその姿です。

しかしその艶やかな姿を貴公子が一瞬見たとたん、人魚は海の中に姿を沈めてしまいました。

貴公子を乗せた船は彼の憧れの地、ヨーロッパ、人魚の故郷の地中海に向かって航路を進めています。

 

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