谷崎潤一郎『鍵』 あらすじ

妻、娘の下宿先で木村と酒盛り後昏睡

三月十八日(夫の日記)

今晩妻は夕刻から外出していた。

夜の十一時過ぎになっても戻らない。

十一時半に敏子から電話で、「パパちょっと来てよ」という電話があった。

敏子に聞くと、敏子の下宿先の家に妻と木村がいて、妻がそこの風呂で倒れたという。

夫は妻が気絶したときにいつもしている注射の道具を持って、敏子の下宿先に向かいます。

敏子が門の前に立っていて「では私は家の留守番に行きます」と父親と入れ違いに出ていきます。

敏子の部屋に入ると、妻は長じゅばん姿で寝ていました。

いつものとおりの妻でしたが、一つ変わったこととは髪が乱れていたことです。

夫はこんなことを考えます。

この髪は木村の趣味なのだろうか?

木村は妻の世話を手伝ってくれます。

木村はこの家の勝手をよく知っているようでした。

妻の脈拍が正常に近づいてきたので、家に連れて帰ることにしました。

夫が妻を抱き起して、木村が長じゅばん姿の郁子(妻)を背負って、タクシーに乗せます。

タクシーで家に帰る途中、夫は妻の髪の中に顔をうずめ、足を握りしめ接吻しました。

家に到着後、木村は帰りました。

敏子は両親が家についたときは玄関にいたのですが、いつの間にか挨拶もせずに下宿に帰ってしまったのでしょうか?

姿が見えません。

その後暁まで一睡もせず夫は夫婦の行為に耽ります。

嫉妬と憤怒が性欲を刺激して、今までにない境地に達したのでした。

妻は「木村さん」といううわごとを繰り返します。

三月十九日(妻の日記)

昨夜は当初は敏子と木村さんと映画に行く予定だった。

木村さんが4時半ごろ家に誘いに来た。

しかし敏子が来たのが遅くて5時頃だった。

敏子は「時間が半端だから食事を済ましてからの方がよくはなくって。今日は私が作るから下宿に来てよ」と言った。

そこで家を出て、三人で敏子の下宿に向かいました。

その時、敏子が「ここのを寄付してもらうわ」と言って、実家にあったブランデーを下宿先に持っていったのでした。

敏子の部屋についた後、なべ料理になります。

敏子が具材を鍋に少しずつ入れるので、なかなかご飯にならず、ブランデーが進みます。

敏子が「もう今から映画を見に行くのは遅いわね」と言い出します。

そのころ妻はすっか酔っていて、とても映画を見る気分ではありませんでした。

いつの間にか急激に酔いが回ってきたので妻は、いつも家でそうしているように、便所に隠れます。

便所の外から敏子がこう母に声をかけます。

「ママ、今日はお風呂が沸いているのよ、マダムは上りはったからママはいらはったらどう」と、便所の外から敏子が云った。

私は、風呂へはいれば倒れるであろうこと、その場合に抱き起しに来てくれる者は、恐らくは敏子でなくて木村さんであろうことを、すでに朦朧となっていた意識の隅で感じていた。

そして間もなく、ひとりで風呂場を捜しあててガラス戸を開け、着物を脱いたことまでは思い出せるが、それからあとは完全に意識を失ってしまった。………

三月二十四日(夫の日記)

昨晩もまた郁子の家で妻は倒れた。昨晩、妻がまた敏子の下宿の部屋で倒れた。

夜12時過ぎに敏子が家に現れ、事情を語ったが、それまで、連絡がくるのを待っているときには期待で胸をワクワクさせていた。

今回は映画の後で木村と郁子と下宿に行って、そこで酒盛りとなったという。

そして昨晩もまた郁子は風呂に入ってそこで倒れた。

僕はこの件は敏子が首謀者であると思っている。

そして、敏子は故意に長い時間木村と郁子を下宿に二人きりにしていのだと考えている。

この前と同じように、妻を家に連れて帰り、夫婦の行為をした。

妻は「木村さん、木村さん」と呼び続ける。

その夜は素晴らしいものだった。

僕は木村に激しく嫉妬しながらも感謝した。

しかし行為の後でものすごいめまいを感じた。

妻の体が二重に見えた。

その後眠ったが奇妙な夢を見た。

空中に妻の体、眼、鼻、唇、頭髪、足、などがばらばらになって極彩色で浮かんでいるのである。

それも目が4つ、鼻が2つ、唇が2つ、など実際の倍の数、各部分が浮かんている。

他にも木村の体から僕の首が生えていた幻影を見た。

木村の体から、木村の首と僕の首の両方が生えている場面も見た。

三月二十六日(妻の日記)

郁子の部屋に行くと、まだ栓を開けてない新しいブランデーの罎が置いてあった。

木村さんや郁子に聞いても知らないという。

どうやら夫がこっそり置いていったのか、それとも木村さんや郁子が自分が買ってきたのに知らんぷりをしているのか。

昨晩もブランデーが始まると敏子はほどよい所で席を外す。

(実はこれはこの前もそうである)

私と木村さんは二人きりでさしつさされつしていた。

私は意識を失ってから後のことはよく分らない。

しかしどんなに酔っていたとしても、最後の最後の一線だけは昨夜も強固に守り通したと思っている。

自分にはいまだにそれを蹈み越える勇気はないし、木村さんだって同様であると信じる。

木村さんはそう云った、
―――ポーラロイドという写真器を、先生に貸して上げたのは僕です。

それは先生が、奥さんを酔わして裸になさりたがる癖があることを知ったからです。

しかるに先生はポーラロイドでは満足できないで、イコンを使って写すようになりました。

それは奥さんの肉体を細部に亙って見極めたいという目的からでもあったでしょうが、それよりも、真の狙いは僕を苦しめることにあったのだと思います。

僕に現像の役を負わせて、僕をできるだけ興奮させ、誘惑に堪えられるだけ堪えさせて、そこに快感を見出しているのだと思います。

のみならず僕のこの気持が奥さんに反映し、奥さんも僕と同様に苦しむことを知って、そこにも愉悦を感じつつあるのです。

僕は奥さんや僕をこんなにまで苦しめる先生を、憎いとは思いますけれども、それでも先生を裏切る気にはなりません。

僕は奥さんの苦しむのを見て、自分も奥さんとともに苦しみ、もっともっとこの苦しみを深めて行きたいのです。

―――私は木村さんに云った、―――敏子はあなたから借りたフランス語の本の中に、あの写真が挟まっていたのを見つけて、これは偶然にここに挟んであったものとは思えない、何か意味があるのだろうと云っていました、あれはどういうつもりでしたか。

―――木村さんが云った、―――あれをお嬢さんに見せたら、お嬢さんが何かしら積極的に動いてくれるであろうことを豫期したのです。

僕はこれといって、何もお嬢さんに示唆(しさ)したことはありません。

僕はお嬢さんのイヤゴー的な性格を知っているので、ああすれば十八日の晩のようなことになるのを期待していただけです。

二十三日の晩のことも、今夜のことも、いつもお嬢さんがイニシアチブを取り、僕は黙ってそれに喰(く)っ着いて行ったまでです。

―――私が云った、―――私はあなたと二人きりでこんな話をすることは今が始めてです。

いや誰とでも、夫とでも、こんな話を一度もしたことはありません。あなたと私との関係についても、夫はあまり聞こうとはしません。

聞くのが恐ろしくもあるのでしょうし、今もなお私の貞操を信じていたいからなのでしょう。

私も自分の貞操を信じたいのですけれども、信じても差支えないのでしょうね、それに答えることができるのは木村さんだけです。

―――お信じ下さい、と、木村さんが云った、―――僕は奥さんの肉体のあらゆる部分に触れています、ただ一箇所だけ大切な部分を除いては。

先生は紙一重のところまで僕を奥さんに接着させようとするのですから、僕はその意を体して、それを犯さない範囲で奥さんに近づいたのです。

―――あゝ、それで安心しましたと、私は云った、―――それまでにして私の貞節を完(まっと)うさせて下さるのを有難く思います。木村さんは、私が夫を憎んでいると云われましたが、憎む一面に愛していることも事実です。

憎めば憎むほど愛情も募って来ます。

あの人は、あなたというものを間に入れ、ああいう風にあなたを苦しませなければ情慾が燃え上らない、それも結局は私を歓喜させるためだと思えば、私はいよいよあの人に背くことができなくなります。

でも木村さんはこういう風に考えることはできないでしょうか、私の夫と木村さんとは一身同体で、あの人の中にあなたもある、二人は二にして一であると。………