谷崎潤一郎『麒麟』あらすじ 

孔子故国を離れる

紀元前四百九十三年のことです。
孔子は数人の弟子たちを連れて故郷の魯の国から旅立ちました。

泗水の河の畔には、芳草が青々と芽ぐみ、防山、尼丘、五峯の頂の雪は溶けても、沙漠の砂を摑むで來る匈奴のやうな北風は、いまだに烈しい冬の名殘を吹き送つた。
元氣の好い子路は紫の貂の裘を飜して、一行の先頭に進んだ。
考深い眼つきをした顏淵、篤實らしい風采の曾參が、麻の履を穿いて其の後に續いた。
正直者の御者の樊遲は、駟馬の銜を執りながら、時々車上の時々車上の夫子が老顏を窃み視て、傷ましい放浪の師の身の上に淚を流した。

或る日、いよいよ一行は、魯の国境に着きました、一行は名残惜しそうに故郷を振り返りましたが、山が邪魔をしてその向こうは見えません。
孔子は琴を弾きながら歌を歌います。

私は故郷を眺めたいのに
山が遮って見ることができない。
私は斧を持っていない。
この山をどうしよう?

それから北へと3日ばかり旅を続けます。
すると広々とした野原に、安らかな、屈託のない歌声が聞こえました。
声の主は百歳近いお爺さんでした。
お爺さんは老子の門弟です。
この年になるまで、結婚をしなかったため老いて妻子もいません。
またお爺さんは若い頃に勤勉に働いたり出世の努力をすることもなかったため、今でも地味な生活を送っています。
お爺さんは毎年のように春になると畔に出て、歌を歌っては落穂を拾っています。
孔子の弟子の一人がそのようなお爺さんの生きざまに疑問を持ち、「そんな人生で悔いはありませんか?」と尋ねます。
お爺さんはこう答えます。

わしの樂しみとするものは、世間の人が皆持つて居て、却つて憂として居る。
幼い時に行を勤 めず、長じて時を競はず、老いて妻子もなく、漸く死期が近づいて居る。
それだから此のやうに樂しんで居る。

孔子の弟子は納得できずません。

人は皆長壽を望み、死を悲しむで居るのに、先生はどうして、死を樂しむ事が出來ますか。

と尋ねます。
お爺さんはこう答えます。

死と生とは、一度往つて一度反るのぢや。
此處で死ぬのは、彼處で生れるのぢや。
わしは、生を求めて齷齪するのは惑ぢやと云ふ事を知つて居る。
今死ぬるも昔生れたのと變りはないと思うて居る。
そしてお爺さんはまた歌を歌い始めました。

衛にたどり着く

お爺さんと別れてからも孔子一行は長い旅を続けます。
たどり着いたのは衛という国でした。
孔子達が衛の都に入ると、街はさびれています。
民は飢えに苦しんでいる様子で、貧しく不幸そうでした。
それは衛の君が妃を溺愛しすぎるためでした。

其の國の麗しい花は、宮殿の妃の眼を喜ばす爲めに移し植ゑられ、肥えたる豕は、妃の舌を培ふ爲めに召し上げられ、のどかな春の日が、灰色のさびれた街を徒に照らした。

丘の上には衛の宮殿があります。
寂れた町とは対照的にきらきらしい御殿です。

さうして、都の中央の丘の上には、五彩の虹を繡ひ出した宮殿が、血に飽いた猛獸の如くに、屍骸のやうな街を瞰下して居た。
其の宮殿の奧で打ち鳴らす鐘の響は、猛獸の嘯くやうに國の四方へ轟いた。
「由や、お前にはあの鐘の音がどう聞える。」と、孔子はまた子路に訊ねた。
「あの鐘の音は、天に訴へるやうな果敢ない先生の調とも違ひ、天にうち任せたやうな自由な林類の歌とも違つて、天に背いた歡樂を讚へる、恐ろしい意味を歌うて居ります。」
「さもあらう。あれは昔衞の襄公が、國中の財と汗とを絞り取つて造らせた、林鐘と云ふものぢや。その鐘が鳴る時は、御苑の林から林へ反響して、あのやうな物凄い音を出す。また暴政に苛まれた人々の呪と淚とが封じられて居て、あのやうな恐ろしい音を出す。」
と、孔子が教へた。

衛の君の悩み

衛の君は国土を見張らせるテラスの上に立っていました。
傍らには美しく着飾った妃がいます。
夫婦は、よい香りのする酒を酌み交わしています。
衛の君は国土を眺めで不思議に思います。

「天にも地にも、うららかな光が泉のやうに流れて居るのに、何故私の國の民家では美しい花の色も見えず、快い鳥の聲も聞こえないのであらう。」

おつきの宦官が答えます。

それはこの国の民が、あなたの仁徳と、お后様の美しさを讃えるあまり、美しい花とあれば悉く宮殿に献上してしますからです。
それで国中の小鳥も一羽も残らず花の香りを慕って宮殿に集まってくるからです。

その時でした。
寂れた町の静かさを破って、孔子の乗った馬車が衛の都に入ってきました。
それを見ていた衛の君とお后、二人のおつきたちは、孔子の立派な風貌に惹かれます。
おつきの一人である物知りの将軍が衛の君と妃に語ります。
あれは故国の政に失望し、自分の考えを伝導するために旅に出た、魯の聖人孔子です。
彼が生まれた時、魯の国には麒麟が現れたとか……
彼は家を整え、国を富まし、天下を平らげる政の道を諸国の君に授けると申します。

衛の君は興味を持ち「孔子と会いたいものだ」と言いますが、同時に妃の顔をちらりと見ました。
というのは衛の君は妃を溺愛するあまり、いつも行動の指針とするのは自分の意志ではなくて妃の意見だったからです。
妃も

「妾は世の中の不思議と云ふ者に遇つて見たい。あの悲しい顏をした男が眞の聖人なら、妾にいろいろの不思議を見せてくれるであらう。」

と孔子に会いたがります。
さっそく衛の君は孔子を宮殿に招きました。

孔子の薫陶で衛の君は立派な為政者となる

それ以来、衛の君の生活は変わります。

夫人を始め一切の女を遠ざけ、歡樂の酒の泌みた唇を濯ぎ、衣冠正しく孔子を一室に招じて、國を富まし、兵を強くし、天下に王となる道を質した。
しかし、聖人は人の國を傷け、人の命を損ふ戰の事に就いては、一言も答へなかつた。
また民の血を絞り、民の財を奪ふ富の事に就いても教へなかつた。
さうして、軍事よりも、産業よりも、第一に道德の貴い事を嚴に語つた。
力を以て諸國を屈服する覇者の道と、仁を以て天下を懷ける王者の道との區別を知らせた。
「公がまことに王者の德を慕ふならば、何よりも先づ私の慾に打ち克ち給へ。」
これが聖人の誡であつた。
其の日から靈公の心を左右するものは、夫人の言葉でなくつて聖人の言葉であつた。
朝には廟堂に參して正しい政の道を孔子に尋ね、夕には靈臺に臨んで天文四時の運行を、孔子に學び、夫人の閨を訪れる夜とてはなかった。
錦を織る織室の梭の音は、六藝を學ぶ官人の弓弦の音、蹄の響、篳篥の聲に變つた。

妃の怒り

ある日衛の君がテラスの上に立って国土を見渡していると、国は見違えるほど豊かになって人民は幸せそうです。
衛の君は感激して涙を流しました
「何を泣いていらっしゃるの?」と聞いたのは妃です。
彼女が放ついい香りと美しさは衛の君をくらくらさせます。
衛の君は妃を払いのけます。

ああ!
あなたの柔らかい腕で私を抱きしめないでください。
あなたの魅惑的な目で私を見つめないでください。
私は孔子先生から罪悪に打ち勝つ方法は習ったけれど、まだ美しい女性の誘惑に打ち勝つ方法は知らないのだから!

妃は怒ります。
ああ!
あの孔子という男は私からあなたを奪ってしまった!

この美しい妃は衛の君を愛してはいませんでした。
というのは妃には衛の君に嫁ぐ前から他に恋人がいたのです。
しかし高慢な妃は自分が衛の君を愛していなくても、衛の君が自分を愛さなくなったことが許せません。
衛の君は妃にこう言います。
私は貴女を愛さなくなったわけではない。
ただ今日から私は夫が妻を愛するように貴女を愛することにしました。
これまで私は奴隷が主人に仕えるように、人間が神を崇めるように貴女を愛していました。
今迄は貴女の肉体の美しさが私にとって一番大切なものでした。
しかし今では私にとって一番大切なものは聖人の教えなのです。

妃はこう言い返します。
あなたはそんな強い人ではない。
私はあなたを孔子から取り返して見せます。
ほら見なさい!
あなたはさっきはあんな立派な事を言ったくせに、いまあなたの瞳はうっとりと私の姿にそそがれているではないですか?
私にはすべての男をとりこにする力があります。
今に私は孔子をも私のとりこにしてみせます。
妃はそう自信ありげにいうと、衣擦れの音をさせてテラスから去っていきました。

妃と孔子

此の衞の國に來る四方の君子は、何を措いても必ず妾に拜謁を願はぬ者はない。
聖人は禮を重んずる者と聞いて居るのに、何故姿を見せないであらう。

宦官から上のような妃の伝言を告げられて、謙虚な孔子はしかたなく妃を訪ねました。
煌びやかなすがたで現れた妃は孔子にこう尋ねます。
「先生がまことの聖人ならば、古から私より美しい女がこの世にいたかどうか教えてくれないでしょうか?」
孔子はこう答えます。
「私は高い徳を持った人のことは良く知っています。しかし美しい顔を持った人のことについてはよく知りません」
妃はこう言います。

私は世の中の不思議なもの、珍しいものを集めています。
しかし私は聖人の生まれるときに現れるという麒麟というものを見たことがありません。
また聖人の胸にあるという七つの穴を見たことがありません。
先生がまことの聖人ならばそれを私にみせてくれませんか?

孔子は

「私は珍しいもの、不思議なものを知りませぬ。私の学んだ事は、匹夫匹婦も知って居り、また知って居なければならぬ事ばかりでございます。」

妃はこう言います。

私に会った男性はみな、どんな不機嫌でも笑顔になるのに、先生はなぜそう悲しい顔をしていらっしゃるのですか?
先生が本当の聖人なら豊かな心にふさわしい麗らかな顔を持たなければなりません。
私は今先生の顔の憂いを払い、悩ましい影を払って差し上げますわ。
私はいろいろなお香を持っています。その香りをかげば、人はひたすら美しい幻の国に憧れることでしょう。

妃は女官に言いつけていろいろなお香の入った箱を持ってこさせました。
部屋の中にはよい香りがたちこめます。
しかし孔子の顔の曇りは深くなるばかりでした。
しかし妃はこう言います。
おや、先生のお顔は美しく輝いてきましたよ。
私はいろいろな酒とさかづきも持っています。
お酒は先生の厳めしい体にくつろいだ安楽を与えることでしょう。

女官たちがが様々なさかづきとお酒を恭しく卓上に運びました。
珍しく高価なさかづきにつがれたありとあらゆる美酒を味わった後も、孔子の眉のひそみは濃くなるばかりです。
しかし妃はこう言います。
先生の顔はますます美しく輝いてきましたよ。
私はさまざまな鳥と獣の肉も持っていますよ。
お香とお酒で心と体を緩めた後は美味しいものを食べなければなりません。

女官たちがさまざまな鳥と獣の肉を持ってきました。
さまざまな珍味を味わったのちも孔子の顔は晴れないまま。
妃はこう言います。
ああ、先生の姿は益々立派に、先生の顔は愈々美しいですよ。
あの幽妙な香を嗅ぎ、あの美酒を味わい、あの濃厚な肉を食べた人は、俗人の思いもよらないような、強く、激しく、美しい荒唐な世界に生きて、此の世の憂と悶とを逃れることが出来る。
私は今先生の目の前にその世界を見せてあげますよ。

そういうなり、妃のおつきの宦官たちが妃の部屋を一杯に仕切っていた帳を開きました。
その先に見えたものは……
帳の向こうは庭でした。

芳草の靑々と萌ゆる地の上に、暖な春の日に照らされて或は天を仰ぎ、或は地につくばひ、躍りかゝるやうな、鬪ふやうな、さまざまな形をした姿のものが、數知れず轉まろび合ひ、重なり合うて蠢うごめいて居た。
さうして或る時は太く、或る時は細く、哀な物凄い叫びと囀さへづりが聞えた。
ある者は咲き誇れる牡丹の如く朱あけに染み、ある者は傷きずつける鳩の如く戰おのゝいて居た。
其れは半なかばは此の國の嚴しい法律を犯した爲め、半は此の夫人の眼の刺戟となるが爲めに、酷刑を施さるゝ罪人の群であつた。
一人として衣を纏へる者もなく、完き膚の者もなかつた。

彼らの中には妃の悪口を言ったばかりにこのような目にあった男もいました。
また衛の君の心を惹いたためにこのような目にあった美女もいました。
妃は恍惚とした顔でこう言います。

私は時々の夫と一緒に馬車に乗って街をめぐりますの。
その時にもし夫が気がありそうな眼つきで流し目を送った往来の女があれば、みんな捕らえてあのような目にあわせてやるのです。
今日は先生も一緒に馬車に乗りませんか?
あの罪人たちを見たならば、先生も私の言葉に逆らうことはなさらないでしょう。

妃の勝利、衛の国を去る孔子

西暦紀元前四百九十三年の春のある日、衛の君と妃の馬車、孔子たち一行を乗せた馬車の二台の馬車が衛の都を駆け巡ります。
孔子たちはそのまま衛の都を出て、衛の国を去って行ってしまいます。
その夕べ、妃は殊更に美しくけしょうして、自分の寝室の錦繡のしとねに横たわって夫を待って居ると、やがてしのびやかな靴の音がしました。
「ああ、とうとうあなたはを戻ってきた!」
と妃は満足げに衛の君を抱きしめます。
衛の君は「私は貴女を憎んでいる。お前は恐ろしい女だ。お前は私を滅ぼす悪魔だ。しかし私はどうしてもお前から離れることができない」と声を震わせます。
あくる日の朝、孔子の一行はまた別の国に向かいます。
孔子が衛の国を去るときこう一言つぶやきました。

吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり

この言葉は論語に載っています。
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