谷崎潤一郎『魔術師』耽美な名作

犠牲者たち

特等席にいた一人の貴婦人が魔術師の前に進みでて、こう言いました。

……魔術師よ、お前は 私を定めて覚えて居るだろう。

私はお前の魔術よりも、

お前の美貌に迷わされて、

昨日も今日も見物に来ました。

 

お前が私を犠牲者の中へ加えてくれれば、

それで私は自分の恋がかなったものだとあきらめます。

 

どうぞ私を、お前の足に穿いて居る金の草鞋にさせて下さい。

他にも魔術師の魅力に惑わされて、ふらふらと舞台に進み出た男女は数十人いました。

そしてそんな男女の列の二十番目には主人公がいました。

恋人は主人公の袖をとらえてさめざめと泣きます。
した。

ああ、あなたはとうとう魔術師に負けてしまったのです。

 

私のあなたを恋する心は、

あの魔術師の美貌を見ても迷わないのに、

あなたは彼の人に誘惑されて、

私を忘れてしまったのです。

 

私を捨てて、あの魔術師に仕えようとなさるのです。

あなたは何と云う意気地のない、

薄情な人間でしょう。

主人公は

私はお前の云う通り、

意気地のない人間だ。

 

あの魔術師の美貌に溺れて、

お前を忘れてしまったのだ。

 

成る程私は負けたに違いない。

 

しかし私には、負けるか勝つかと云う事よりもっと大切な問題があるのだ。

と彼女を振り切り、魔術師の前へと引き寄せられて行きます。

主人公は魔術師にファウン(ギリシャ、ローマ神話に登場する、上半身人間で下半身羊で、頭に羊のツノの生えている半羊神、歌や踊りが好きで陽気なお調子者のイメージ。パーン、サテュロス)になりたいと頼みます。

魔術師が

よろしい!
と魔法の杖で主人公の背中を一打ちすると、見る見るうちに主人公はファウンへと変身しました。

恋人が魔術師の前にやってきてこう言います。

私はあなたの美貌や魔法に迷わされて、

此所へ来たのではありません。

 

私は私の恋人を取り戻しに来たのです。

 

彼の忌まわしい半羊神の姿になった男を、

どうぞ直ちに人間にして返して下さい。

 

それとも若し、返す訳に行かないと云うなら、

いっそ私を彼の人と同じ姿にさせて下さい。

魔術師が

よろしい、そんならお前も半羊神にしてやる。

と言うと彼女もたちまちファウン(半羊神)に姿を変えました。

そして彼女は主人公にめがけて駆け寄ったかと思うと、いきなり自分の頭のツノを主人公のツノにしっかり絡みつけました。

そして二つのファウン(半羊神)の首は飛んでもはねても離れなくなってしまいました。

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