谷崎潤一郎『鍵』 あらすじ

妻が木村と二人で会うようになる

四月五日(夫の日記)

ここのところ妻が毎日午後になると一人ででかけて、四五時間後の夕食前に戻ってくる。

どこにいくかは知らない。

敏子が来たときに聞いたが、敏子は「ママも木村さんもさっぱり見えない。どこへ行くのかしら」と首をひねった。

だけど本当は敏子もグルなのだろう。

四月六日(妻の日記)

私はここのところ毎日午後に、木村さんとある場所で会っている。

どうしてそんなことをしているのかというと、私は太陽の下、酒気を帯びていない時に木村さんの裸体に触れてみたかったのだ。

そして現実に確かめた木村さんの裸体は、今年の正月以降、幾度となく幻覚の中で見た通り、美しくたくましいものだった。

木村さんの裸体がまぎれもなく現実のものとなった今、私の中で夫と木村さんは完全に切り離された。

夫の肉体は木村さんのそれのような魅力は一切ない。

ああ、私はなんて自分の好みに合わない嫌な人を夫にもったのだろう。

もし木村さんが夫だったら……とため息がでる。

しかしここまで来ても私と木村さんは最後の一線を越えずにいる。

四月十日(妻の日記)

夫は彼自身の最近の頭や体の状態についてどう思っているのだろうか?

実は私はもう一二か月前から、夫の様子がおかしいことに気が付いていた。

彼はもともと血色のすぐれない顔つきをしているのだが、最近は特に色つやが悪くて土気色をしている。

階段を上り下りする時にしばしばよろけることがある。

元来記憶力のよい人であったのが、近頃は顕著に度忘れをする。

人と電話で話しているのを聞いていると、当然知っていべきはずの名前が浮かんで来ないで、マゴマゴしていることがある。

室内を歩きながら、突然立ち止まって眼をつぶったり柱につかまったりする。

少し慇懃(いんぎん)な手紙を書くには巻紙へ毛筆でしたためるのだが、字体がひどく拙劣になりつつある。

(書道というものは老年になるほど熟達するのが普通である)

誤字や脱漏が目立って多くなっている。

私が見るのは封筒の上書きだけであるが、日附や番地を間違えるのは始終である。

その間違え方もはなはだ不思議で、三月とすべきを十月としたり、自宅の所番地にとんでもないでたらめを書いたりする

先日かかりつけのお医者さんに夫を診察してもらうようにたのむと、先生も「そのことで僕も奥さんにお話ししたいと思っていました」とおっしゃってこんなことを教えてくれた。

夫は血圧が非常に高く、あと少しで血圧計で壊れそうだったという。

そしてお医者さんがセックスを控えるようにと再三警告したのにもかかわらず、夫はそれを守っていないらしい。

実をいうと最近私も体調が悪い。

おりおり胸が気味悪く疼くし、午後になると毎日のように疲労感が襲ってくる。

もしかして自分には死期が近づいているのではないだろうか?

かといって私と夫が淫蕩のかぎりをつくすことはやめられないだろう。

四月十三日(夫の日記)

この日は妻の外出と入れ替わりで敏子が家にやってきました。

そして二人で夕食となります。

夕食中こんな会話となります。

敏子「パパ、ママはどこへ行かはるのか分かってはるの」

父「そんなことはわからないさ、そこまでは知りたくないからね」

敏子「大阪よ」

敏子によると大阪に妻と木村があいびきをする家があるというのです。

敏子「適当な場所があることを私が教えてあげたのよ。京都では人目につきやすいから、京都から遠くない所で、どこかないでしょうかと木村さんが言うから……立ち入ったことを聞くようだけどパパはどう思っているの?」

父「どう思うって、どういうことさ」

敏子「ママが今でもパパに背いていないと言ったらそれを信用するつもり?」

父「ママはお前とそんな話をしたことがあるのか?」

敏子「ママとそんな話はしないわ。木村さんから聞いたのよ。『奥さんは先生に対していまだに貞節を保っておいでです』とあの人が言うのよ。そんな阿呆らしいことを私は真に受けたりしないけれども」

父「御前が真に受けようと受けまいとお前の勝手だ」

敏子「パパはどうなの」

父「僕は郁子を信じる。たとえ木村が郁子を汚したと言ったとしても、僕はそんなことを信じない。郁子は僕を欺くことができるような女ではない」

敏子「ふふ……でも、かりに貞節はまもっていたとしても、それよりもいっそう不潔な方法である満足を……」

父「止めないか敏子、生意気なことを言うのはよせ! 親に対して言っていいことと悪いことがある、貴様こそ汚れた奴だ。用はないならさっさと帰れ!」

父親にそうどやしつけられると、敏子は家を出て行ってしまいました。

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