継母と糺(ただす)と沢子
糺(ただす)は大学生になりました。
もともとお客の少ない家でしたが、父が亡くなってからはさらに来客が減りました。
訪ねてくるのは、糺(ただす)の婚約者の沢子とその親だけでした。
継母は常にしゃんとしていて琴を弾いたり、来客を応対していましたが、今頃になって少し疲れがでてきたのでしょうか? 時々女中さんたちに肩や足腰を揉ませていました。
そんな場面に沢子が居合わせて、
と申し出ます。
そしてお沢が継母の按摩をするのでした。
継母はこう言って喜びます。
本物の按摩さんだってここまで上手ではない。
こうやって揉んでもらっていると、とろとろ眠くなってくる。
継母が
これやったらくろうと裸足どすえ。糺さんあんたもして貰とおみ
というと、糺(ただす)はこう断ります。
それよりも僕は沢子さんの弟子になって揉み方を教えてもらおう。
それでお母さんを揉んであげるよ。
それからしばらくは、糺(ただす)と沢子は継母の体を稽古台にして、揉み療治の稽古をしました。
結婚を間近にして沢子はたびたび糺(ただす)の家を訪れます。
糺(ただす)は沢子に物足りなさを感じます。
というのは沢子は糺(ただす)にも継母にも封建的で、控えめすぎる態度をとるのでした。
糺(ただす)は
と思います。
糺(ただす)は沢子の態度を不満に一方で、
とも考えます。
まもなく糺(ただす)はひととおりの按摩術を習得しました。
今では沢子がいない時もしばしば継母の体を揉みます。
沢子がいるときでも、沢子を押しのけて、
と母を揉みます。
継母に乳を吸わせて貰った昔が忘れられない糺(ただす)にとっては、継母の肉体を着物の上から揉みほぐすことが、今では唯一の楽しみでした。
父の一周忌が来ました。
一周忌の来客の継母や糺(ただす)に対する態度は非常に冷淡でした。
親戚たちは父親が舞子あがりの後妻をもらったときから、父に反感を持っていたのです。
さらに息子の糺(ただす)が身分違いの植木屋の娘と婚約したので、糺(ただす)の一家を軽蔑するようになっていたのでした。
しかしそれにしても冷淡すぎる、彼らの態度の理由について、糺(ただす)は法事にやってきた乳母から聞かされます。
乳母によれば、親戚たちは糺(ただす)と継母の間に不倫な関係があると信じているというのです。
そしてその関係は父の存命中からで、父が自分が長生きできないことを悟ってから、それを大目にみていたらしい。
さらに田舎に里子にやられた武は本当は父の子ではなくて、糺(ただす)の子ではないのか? という噂がささやかれているといいます。
糺(ただす)の結婚相手が沢子なのは、丙午(ひのえうま)の植木屋の娘でもなければ嫁の来てがないからである……
また嫁を迎えるのも、形式的にでも結婚すれば、世間を欺いて、今後も糺(ただす)と継母の不倫な関係を続けられるからである……
梶川家や沢子はそれを承知で糺(ただす)と結婚するわけであるが、それは糺の家の財産が目当てである……
乳母からそう聞かされた糺(ただす)は
無責任な人の噂みたいなもん、直に忘れられてしまうもんやぜ、何とでも勝手に云わしとくねやな
と答えます。
まもなく糺(ただす)と沢子は結婚式を挙げました。
花婿の糺(ただす)の服装は母のいいつけで父の形見の紋付でした。
糺(ただす)の親戚は父方も、母方も一人も来ませんでした。
来たのは沢子の実家の親戚と、父の主治医だけでした。
結婚後も沢子の糺(ただす)と継母に対するかしこまった態度は変わりませんでした。
糺(ただす)は沢子との間に子供ができないように努め、いちどもそれを怠ったことがありませんでした。
表向きは継母と新婚夫婦たちの関係は至極円満に見えます。
継母はのんびりとした屈託のない暮らしをしています。
暇があれば近衛流の習字をし、国文学の書を繙き(ひもとき)、琴を弾き、庭を散歩し、くたびれれば昼夜の分かちなく私達に足腰を揉ませた。
というのがその頃の継母の生活でした。
夜の按摩は糺(ただす)が呼ばれたことはなく、いつも沢子に限られていました。
たまには三人で観劇や遊山にも出かけます。
もともと色つやがよかった継母はますます色つやがよくなり、顎が二重顎になりかけます。
継母はこれ以上太ったら醜くなる程度まで肥えてきました。