『母を恋ふる記』あらすじ 感想

ここであたりの雰囲気がぱっとかわりました。

松林のまばらになっている先に丸く小さな光る月が輝いています。

銀が光っているような鋭い冷たい明るさでした。

「ああ月だ月だ、海の面に月が出たのだ」

潤一はそう思いました。

冴え返った銀光がピカピカと、

練絹のように輝いている。

 

私の歩いている路は未だに暗いけれど、

海上の空は雲が破れて、

其処から餃々たる月がさしているのだろう。

 

見ているうちに海の輝きはいよいよ増して来て、

此の松林の奥へ までも眩しいほどに反射する。

(中略)

きらきらと絶え間なく反射しながら、

水の表面がふっくらと膨れ上って、

(中略)

海の方から晴れて来る空は、

だんだんと此の山陰の林の上にも押し寄せて、

私の歩く路の上も刻一刻に明るくなって来る。

 

しまいには私自身の姿の上にも、

青白い月が松の葉影をくっきりと染め出すようになる。

丘の頂上は次第に視界の左の方へ遠退いて行きます。

潤一はいつの間にか海の目の前に立っていました。

ああ何と云う絶景だろう

と潤一はは暫く恍惚としてたたずんでいました。

街道は、白泡の砕けている入り組んだ海岸線にうねうねと限りなく続きています。

街道と波打ち際との間には、

雪のように真白な砂地が、

多分凸凹に起伏しているのであろうけれど、

月の光があんまり隈なく照っているために、

その凸凹が少しも分らないで唯平べったくなだらかに見えその向うは、

大空に懸った一輪の明月と地平線の果てまで展開している海との外に、

一点の眼を遮るものもない。

(中略)

其の海の部分は、単に光るばかりでなく、

光りつつ針金を捩じるように動いているのが分る。

 

或は動いているために、

一層が強いのだと云ってもよい。

 

其処が海の中心であって、

其処から潮が渦巻き上るために、

海が一面に膨れ出すのかも知れない。

 

何しろ其の部分を真中にして、

海が中高に盛り上って見えるのは事実である。

 

盛り上った所から四方へ拡がるに随って、

反射の光は魚鱗の如く細々と打ち砕かれ、

(中略)

その時風はぴったりと止んで、

あれほどざわざわと鳴っていた松の枝も響きを立てない。

 

渚に寄せて来る波までが此の月夜の静寂を破ってはならないと力めるかの如く、

かすかな、遠慮がちな、

囁くような音を聞かせているばかりである。

 

それは例えば女の忍び泣きのような、

蟹が甲羅の隙間からぶつぶつと吹く泡のような、

消えるようにかすかではあるが、

綿々として尽きることを知らない、

長い悲しい声に聞える。

 

その声は「声」と云うよりも、

寧ろ一層深い「沈黙」であって、

今宵の此の静けさを更に神秘にする情緒的な音楽である。.

そんな絶景の中、なぜだか興奮して急ぎ足で歩く潤一。

こんなことを考えています。

私は前にもこんな景色を何処かで見 た記憶がある。

 

而も其れは一度ではなく、

何度も何度も見たのである。

 

或は、自分が此の世に生れる以前の事だったかも知れない。

 

前世の記憶が、今の私に蘇生って来 るのかも知れない。

 

其れとも亦、実際の世界でではなく、

夢の中で見たのだろうか。

うっかりしていると、

自分もあの磯馴松や砂浜のように、

じっとしたきり凍ったようになって、

動けなくなるかも知 れない。

 

そうして此の海岸の石と化して、

何年も何年も、あの冷たい月光を頭から浴びていなければなるまい。

 

実際今夜のような景色に遇うと、

誰でもちょいと死んで見たくなる。

 

此の場で死ぬならば、

死ぬと云う事がそんなに恐ろしくはないようになる。

隈ない月の光が天地に照り渡っている。

 

そうして其の月に照される程の者は、

悉く死んでいる。

 

ただ私だけが生きているのだ。

私だけが生きて動いているのだ

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