谷崎潤一郎『人面疽』あらすじ 感想

高級事務員H

百合枝は

もしかしたらあの人なら知っているかもしれないわ
と思いあたり、日東写真会社に古くから勤めている、高級事務員のHという男に聞いてみることにしました。

Hは外国会社との取引に関する通信や、英語の映画雑誌や筋書きの翻訳に従事しています。

日本に渡ってきたアメリカのフィルムの作成年代や輸入の経路や、中に現れる俳優の経歴について詳しいようです。

ある日百合枝はHの事務所を訪ねます。

(H)
……あの映画のことですか?

僕はまんざら知らなくもありませんが

….そうすると、あなた御自身にも、あの写真を撮影された覚えがないのですね。

あれは不思議な、変な映画です。

実はあれについて、僕もあなたにおたずねしたいと、とうから思っていたのですが、他聞を憚る事でもあり、それに少し気味の悪い話なので、お伺いする機会がありませんでした。

今日は幸い誰も居ませんから、お話してようござんすが、聞いた後で、気持ちを悪くなさらないように願います

(百合枝)
大丈夫よ。

そんな恐い話なら猶聞きたいわ。

(H)
……あのフイルムは、実はこの会社の所有に属しているもので、この間中しばらく場末の常設館へ貸して置いたのです。

あれを会社が買ったのは、たしかあなたがアメリカからお帰りになる、一と月ばかり前でした。

それもグロオブ会社から直接買ったのではなく、横浜の或るフランス人が売りにきたのです。

フランス人は、外の沢山のフイルムと一緒に、あれを手に入れて、長らく家庭の道楽に使って居たようです。

フランス人が買った以前にも、中国や 南洋の植民地で散々使われたものらしく、大分傷が附いて、傷んで居ました。

しかし会社では、『武士の娘』以來、あなたの人気が素晴らしい際でもあり、あなたが会社へ來て下さるという契約の整った時でしたから、―それに又、傷んでは居るが非常に抜けのいい、あなたの物としても特別の味わいのある、毛色の変った写真でしたから、法外に高い値段で買い取ったのです。

ところが、買い取ってから間もなく、あの映画について奇妙な噂が立ちました。

あの映画を夜遅く、たった一人で静かな部屋で写してみると、かなり大胆な男でもとても最後まで見ていられないような、ある恐ろしい事件がおこるというのです。

その事件とは下記のようなものでした。

以前会社に雇われていたMという技師がフィルムの曇りを修正するために、或る晩あの映画を映しながら、傷を調べていた時にその事件は起こりました。

最初は他の社員は誰もMの言葉を信用しなかったのですが、その後物好きな連中が二三人で代わるがわる見てみたところ、

確かに怪しい。あの写真は化け物だ
という騒ぎになりました。

そしてその後Mという技師はだんだん気が変になり、ほどなく会社をやめました。

またM以外の物好きに実験した社員たちもそれから毎晩夢にうなされたり、訳のわからないふらふら病に取りつかれたり、合点のいかない出来事が引き続きで起こるのでした。

社長も実験した一人ですが、その後、半月ばかり病名の分からない熱病にかかったそうです。

社長は迷信深い神経質な人です。

こんなことを主張しだしました。

(社長)
歌川百合枝の雇い入れの契約を破棄しよう。

あのフィルムも売り払おう。

しかしそれには反対する人が多かったのです。

(社員A)
あのフィルムはそうとうな高値で買い入れたものです。

それを損をする値段で売却する必要はないでしょう。

(社員B)
歌川百合枝には多額の前金を払っています。

いまさら契約を破棄するのはもったいないじゃないですか。

(社員C)
あの映画の怪異は深夜一人で見るときだけに起こるのです。

大勢の人がいる映画館で見る分には何も問題はないはずです。

そこで「日東活動写真会社」は歌川百合枝との契約は続行することにしました

また、例のフィルムは当分の間、よその会社へ貸すことにして、相当の値で買い手がつくのを待つことにしました。

本当はどこか大きな会社に貸すつもりでしたが、近年、会社同士の競争や軋轢が激しい状況です。

大きな会社はライバルである「日東活動写真会社」のフィルムなんか借りてくれません。

そこでフィルムは地方の小さな常設館に貸しました。

広告がろくにされなかったため、あれだけすぐれた映画がどこでも一遍も評判にならずにすんでしまいました。

それがこのごろは関西を一回りして東京の場末で上映されるようになったのです。

ところでHは深夜に映画を一人で見る、ということはやっていないものの、警察官や新聞記者をたちあわせての試写会をやったときに、全篇の映画を詳細に見ました。

その時Hはあの日本人俳優はおかしいと思ったそうです。

(H)
ほかの出演者については映画通の僕は皆知っています。

けれでもあの物乞い役の日本人俳優だけは、一度も見たことのない役者でしたよ。

焼き込みということも考えたのですが、焼き込みではどうしても、不可能な場面がありました。

そこでHはグロオブ社に問い合わせの手紙を出しました。。

回答は下記のようなものでした。

「人面のできもの」という表題の映画を作ったことはない。

しかしその劇の中に現れているような場面をところどころに使って、それに多少に通った筋の映画を作ったことはたしかにある。

だから何者かがそのフィルムへ他のフィルムの断片を混ぜ込んだり、あるいは一部分の修正や焼き込みを行って、そういう偽物を
製造したのではないだろうか?

またミス ユリエと同時期に弊社が雇っていた日本人俳優はおっしゃる通りにS、K、Cだけだが、彼女の在勤以前に日本人俳優が二三人雇われていたこともあるし、最近には新たに雇ったのが五六人いる。

ゆえに弊社においても彼女が顔を知らない日本人を彼女のフィルムに焼きこむことはありえないことではない。

また当会社ではかなり困難な破天荒な焼き込みを行うことができるけど、その焼き込みがいかなる程度までいかにして可能であるかは、企業秘密なので、残念ながらお答えしかねる。

またお問い合わせのフィルムについては弊社でも捨てておけないので、参考のため、一度その作品を検査してみたいから、相当の代価をもって弊社へ譲り受けてもらいたい。

そいういうわけであの映画の正体はいまだわからずじまいなのです。

Hはこう言います。

(H)
しかしその映画の焼き込みにしろ編集にしろ、どれだけの技術と手間がかかることでしょう?

そんな面倒なことを金儲けのためにやったとは思われない。

ユリエさん。

あなた、アメリカにいた時に誰かに恨みを買うようなことをやっていませんか?

どうしてもあれはあなたに惚れていながら、散々嫌われたとか、欺かれたというような覚えのある人間に関係のあることですよ。

僕は必ずそうだと思います。

そういう男の怨念があの映画にとりついているのとしか思えません。

(百合枝)
わたしそんなこと知らないわよ。

それにしてもそのできものになる人間というのはどれほどのぶ男なの?

(H)
物乞い役の俳優は、恐ろしいぶ男ですよ。

色の真っ黒な、目のぎろりとした、でぶでぶした丸顔の、全くできもののような顔つきです。

笛吹の男の役の深刻を極めた演出といい、できものになってからの陰鬱な物凄い表情といい演技力も抜群です。

あれほど特徴的な顔つきと技量をもった俳優が無名だと言うのが一種の怪異です。

(百合枝)
怪事というのはどんな変なことがおこるの?
(H)
そもそも映画を夜中一人で見るだけで気味が悪い者だけど、あの映画は特別にですよ。

あの映画を見ていると、冒頭の笛吹の物乞いが現れる刹那から、胸を刺されるような総身に水を浴びるような気分を覚えて、ある尋常でない想像が襲ってくるのです。

そしてラストの侯爵夫人になったあやめ太夫が発狂して自殺するとき、百合絵さんの右の脚の半分が膝から爪の先まで大写しになるのですが、例の膝頭にふきでている出来物が最も深刻な表情を見せて、さもさも妄念を晴らしたように唇をゆがめながら一種独特な泣くような笑いかたをするのです。

その笑い声が映画を見ていると聞こえてくるのです(当時の映画はまだ無声です)

M技師の考えではそれは外部に余計な雑音があったり、注意が少しでも散っていると、聞こえないぐらいの声であるから、聴きとるにはかなり耳を澄ましている必要があるそうです。

「ことによるとその笑い声は映画が公衆の前で映写される場合にも聞こえているのかもしれないが、おそらく誰も気が付かずに済んでしまうのだろう」ということでした。

Hはこう続けます。

ところでこのフィルムですがグロオブ社に譲渡するために二三日前に場末の映画館からひきとって、ここの棚に置いてあるのですよ。

社内で映写することは社長に厳禁にされていますけど、フィルムのままでご覧になるなら差し支えはありません。

いかがです。

ちょっとご覧になりますか?

その物乞いの顔をみるだけでもなにか手掛かりがつかめるかも……

Hはフィルムの入った缶をもってきました。

ほら、御覧なさい。

これが物乞いの男です。

百合枝が見せられたのは、ラストの自害した侯爵夫人の膝で笑う人面のできものの顔です。

やはり百合枝には見覚えのない顔でした。

Hはこう言います。

一つどうしても焼き込みではダメなどころがあるのです。

これは五巻の真ん中ごろです。

あやめ太夫ができものに反抗して、なぐろうとすると、できものが彼女の手首にかみついて、右の親指の根本を歯と歯の間へ挟んで離すまいとしているのです。

あなたはさかんに五本の指をもがいて苦しがっています。

これなんぞはどうしたって焼き込みではできませんよ。

そういいながらHはフィルムを百合枝の手に渡してたばこに火をつけて、部屋の中を歩き回りつつ、独り言のように付け加えました。

……このフィルムが、グロオブ会社の所有になると、どういう運命になりますかな?

僕は抜け目のないあの会社のことだから、きっとこれを何本も複製して、今度は堂々と売り出すだろうと思います。

きっとそうするに違いありません。