啓坊
時間はたってまた入梅の季節となりました。
幸子が去年黄疸になったことを思い出しながら庭いじりをしていると、客がありました。
客は昔妙子と駆け落ちをしたことがある、奥畑 啓三郎(通称 啓坊)でした。
貴金属商「奥畑商店」の三男坊。
なよっとしたお坊ちゃまです。
幸子は以前は啓坊を純真な青年と思っていましたが今ではその見方はだいぶ変わっていました。
というのは夫の貞之助から啓坊が女遊びをしているという噂をきいていたのです。
妙子にも話していましたが、奥畑の家系の男性はみなお茶屋遊びが好きだから……それに自分となかなか結婚できないからやけをおこしているだけだろう、と冷静です。
もうあまり啓坊に好感を持っていない幸子でしたが、とりあえずは彼の話を聞きました。
啓坊によると最近妙子は洋裁を習うようになり、一方人形制作の方はあまりしなくなったといいます。
それは人形のようなのは一時の流行で将来は売れなくなってしまうかもしれない、一方洋裁なら実用的なものだから、常に需要があるはずだ、という理由でした。
啓坊はなぜもうじき結婚することになっている良家のお嬢さんがそんなに金を稼ぐことを考えなくてはならないのか?そんな職業婦人になるようなことはやめてほしい、と言います。
また啓坊は妙子が洋裁を習いにフランスに行くつもりがあることを聞いていますが、それもやめてほしいと思っているそうです。
啓坊がまるで自分と妙子が結婚することが決まったことのように言うのを聞いて幸子は滑稽さと反感を覚えます。
幸子が妙子に妙子の考えを尋ねると、妙子はそれを否定しませんでした。
妙子によれば妙子はやはり啓坊と結婚するつもりであるが、啓坊は将来稼げるようになる人ではない、むしろ財産を使い果たしてしまう人だろう。
そうなったときに自分が啓坊に頼らないでも暮らしていけるように洋裁を習うのだと言います。
またやはりフランスに行くつもりであるが、その費用は本家に預けてあるはずである、父親が用意してくれた自分の嫁入りの支度金を使ってくれと言います。
妙子は幸子からこの頼みを本家に話してくれと言います。